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昔は、男の人は高等小学校を卒業するか、青年学校8年まで修了するか、女の人は女学校を出ると先生になる資格がもらえました。女学校を出て先生にならないで家にいる人とか、青年学校を卒業した人達がみんな、夏休みになると、松原に建ってるあずま屋で勉強会をしてくれたんです。朝、朝早く起きて、松原そうじっていってみんなで松原を掃除して、そのあとにその人たちが夏休みの勉強をみてくれたんです。
5年後にやっと奉公先から戻ってくると、裁縫の習い事をしました。戦時中のことで、ちょうどそのころ、学校の制度がうんと変わったんだよね。「国民学校」と言ってたのが、「青年学校」になったのかな?(職業に従事する、勤労青少年男女に対する教育機関。「専修科」には修業年限がなかった。終戦まで存在した)
小学校は6年とか、年数が決まっているけど、そこは、何年通ってもいいの。裁縫を教えられる先生がいて、それまでミシンを使ったことがなかったけれど、学校にたった1台あるミシンを使わせてもらいに通って一所懸命習いました。みんなが学校に行かない休みの日も弁当持って、ミシン使いに通ったんです。ミシンの糸が絡まってしまうと、ミシンを分解(ばら)して修理しなければいけなかったのね。そうして直してもらってねぇ。一生懸命、やりました。
唐桑尋常小学校では、1クラス40人くらいいましたね。3年生までは男女一緒で、4年生からは裁縫が出たわけ。そのために男女に分かれて授業を受けました。男は裁縫の時間は勉強です。
お裁縫はそのころから好きでした。でも、みなさんがね、「学校さ、やばい(行きましょう)」って誘いに来ると、たまに父が、「今日は田の草取りだから、今日学校ダメだぞ」って。こう言われると、(はぁ、田んぼだの畑だの無い家に生まれたかった)と思ったの。田の草取りは除草機を使ってね、母と姉と私と父と4人でやって。自分では当たり前のことだ、と思い、不思議ではなかったですが、畑も、いっぱいあったからずいぶん働かされました。だからお裁縫が出来る日は、みんなとお話してね。楽しいでしたね。フフ。赤ちゃんの肌着とかそういうのを縫うんです。
中井小学校(分校)には6年生まで通って、天長節とか明治節とか行事の時だけは、唐桑(尋常小学校)に来ていました。高等1年からは唐桑でみんな一緒に勉強しました。
すん~ごく、きかない先生が居てねえ。若い男の先生で、誰かちょっとでも悪いことをするとね、雪の中、みんな足袋を脱がされて、小学校から海岸まで、裸足で走らせられたのね。思い出すね。厳しい先生だったけど、その先生から教わったことは頭に入ってるね。すんごい、おっかない先生だった。クラスの中で1人でもなんかやったもんなら、もう、長くて青い鞭で、バンバン、バンバン叩かれたもんだ。その先生はおっかなかったけど、やっぱり教わったことは覚えててね。不思議なもんですよね。
尋常小学校のあとは15歳で尋常高等小学校2年卒業でしょう。そのあと、青年学校っていうのに入ったんです。高校に行かない人たちだけの学校を青年学校ってね。高校にいく方は優秀な方がまず行ったわけですよね。
青年学校のころはね、たとえば隣では働き手のお父さんが兵隊にいっていない、だが畑はいっぱいある、そういうときはその青年学校の人たちが麦刈りでも、畑つくりでも手伝いに行ったの。増産隊って言ってね。青年学校にも男の生徒は居ないの。
石浜ってとこさね、2人暮らしで、お父さんが兵隊にいって、お母さんが1人で留守番で、畑がいっぱいあると、「今日15人、人手が欲しいんだって」と言われれば、15人で鍬持って行って、並んで、でっかいでっかい畑に入って、そして一斉に働いたもんだ。若い者、なんぼでも働けたのさ。うん。そしておやつをごちそうになるのが嬉しくてねえ(笑)。今ならダイエットとかって食べないで痩せる方法がやってるね、ああ、こんなでっかい「おはぎ」なんか出たもんなら、喜んでごちそうになって、働いて来た。そうやって仕事を割り振りして働きに行ったの。
希望して工場に働きに行った人もいました。私もね、周りでみんなお友だちが行くから、「私も行きたい」って言ったの、親に。そしたら親が言うには、「お前はとっても寝相が悪くて、他のあんちゃんたちに笑われるから出されねえ」って(笑)。やっぱりひとり女が1人だから出したくなかったんでしょうが、そんなこと言われたって(笑)。あんたがたは笑ってけらい(笑ってくださいよ)。アハハハ。
うちの両親が、かなり心配して、こう言ってたのを聞いたの。「男がみんな兵隊に行って戦死して、たったひとりの娘さ、夫を持たせられねえんでねえかな」って。それで私は、「はあ、早く嫁に行かせたいのかなあ」と思ったった。とにかく、戦死したんだもの、男っていう男はね。体の弱い人だけ残って、全部兵隊にとられて、兵隊に行く年齢よりちょっと若い人は軍需工場に取られたんです。男は誰もいないんだもの。だから、親としてはそう思ったんでねえかね。
青年学校は部落部落にあるわけね。畑をいっぱい持ってる家から30坪くらい借りてね、農業の先生をお呼びして、農業を教えられた。私たちは唐桑中学校の下のほうの畑をお借りしてそこにみんな集まったの。1週間に1回とか、そんな毎日でもないので、仕事って言えば家の仕事を主にさせられたのね。例えば春は草むしりとか、サツマイモ植えるとか、麦踏みとか、5月6月は農繁期で学校を休ませられるんだもの。農繁期って丘の方では田植え。こっちの方では麦刈りをするんです。
近所に三姉妹の方があって、その家へ毎日遊びにいったのよ。上のお姉さんは私と1個違いだったし、あと妹2人とは、3個ぐらいずつ年下だった。今でも懐かしいです。遊んだ笹浜の方、歩ってみたいと思うね。その三姉妹以外にも、ほかにも子どもが来るの。そうね、6人・・7人くらいかね。みんな寄ってきてね。みんなで仲良く遊ぶ。喧嘩しないでね。毎日遊んだもんです。陣取りとか、縄とびとか、もう、汗流して遊んだものね。今みたいにゲームなんてない頃ですし、そんなもの、夢にも思わないもんね。お手玉とかね。おはじきですね。
三姉妹の家には、みんな寄るのね。別の家に行くと、きれい好きなお爺さんがいて、箒を手から離さないで、遊びに行くと追われるわけだ。「散らかす」って(笑)。だからその三姉妹の家に毎日のようにいって遊んだわけ。
今の「イジメ」なんて、なかったですよね。なんでいま「イジメ」なんてやるんだかね。ほんと仲良くね。虐められたこともないし、もちろん虐めたこともないし。仲良く遊んだもんだがね。陣取りなんてね、男性軍はそっち、女性軍はこっちでね。そして遊んだもんです。汗流してね。
仲良しだった三姉妹は、上のお姉ちゃんだけ青年学校まで一緒で、後の2人は体が弱くてね、早く亡くなったんです。遊び相手が減ってしまってさびしかったですね。
あと、夏休みはラジオ体操あったのね。宿(しゅく)の唐桑小学校に行ってラジオ体操するのに、30分くらいかけて行ったのね。学校に行く時は、大体、みんなで一緒に行きましたね。終わったらハンコ押してもらってね。ラジオ体操、好きでしたし、運動会でも徒競争だけはいつも1等で、あとはもう、後ろの方から1等かな(笑)。
兄とは、半造(はんぞう)に行って、ナメコやなんかのキノコ採りとか、「かけす」って言ってたアヤメ、あとは、オキナソウが沢山あったんですよ、それを掘りに行ったりとかね。よく兄に連れられて歩ったの。掘ってきて育てたりとかね。あとはほら、栗取りとか、あけび取りとか、兄を追っ掛けて、そして歩いたの。
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