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終戦の日を迎えたのは、は中学2年の時、私は15歳でした。
当時の中学校は入るのは大変だったんですよ。競争率が4.6倍でしたからね。今なんて1倍あるかないかの競争率で騒いでいますけど、昔は4~5倍ぐらいが普通だったんです。1学年3クラス40人ずつ、合計130人くらいいたと思います。私は2年でしたが、兄のいた4~5年生は学徒動員で、授業しないで、全員、軍需工場に引っ張られていきました。「戦を支えねば駄目だ」という、軍隊主義だったんだね。みんな洗脳されて、オウムと同じですよ。昔の人たちは、「それこそ天皇陛下万歳」の万歳組です(笑)。
8月15日、私たちは生徒全員で長沼(ながぬま:登米市迫町)に行って勤労奉仕をしていました。山を開墾してたんですね。その近くの店で、玉音放送を聞かされましたが、何を意味するのかよくわかんなかったですね。「負けた」って言う人と「そんなことないでしょ」って言う人もいましたし(笑)。
「風の中、土に悠々と立つ──銀行マンの見た登米・志津川」須藤衛作さん(仮名)
[宮城県本吉郡南三陸町志津川]昭和7(1932)年生まれ
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