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農業共済組合に入った頃は、「農共済ってなんだ?」って状態で、ぜんぜんもうね、メリットが理解されない時代でした。「共済ってそんなの入らねえし、貰わねえす」というのを納得させんのに、まあ相当の年月食ったよね。
農業共済ってのは「農業災害補償法」っていう法律で運用されて、防災掛け金っていう、一反分あたりのもと掛けで、冷害だの被害にあった時は、共済金というのが支払われる、農家の保険みたいなものです。保険の対象の中に家畜も入ってるんです。当時はほとんどの家で牛、馬を持ってたんです。昭和27~8年ごろはね、交通も、トラックも船もないとなると、馬車だったんです。後ろに荷台があって、ガラガラと引く、あれですね。馬は農耕にも使ったの。そうすると馬が病気だのになったら農家が困るし、その時には獣医さんが必要になりますよね。農業共済組合では家畜保険っていうので、馬が死んだ時は保険金払うし、病気になった時は人間の健康保険と同じように獣医さんを世話して、ほんと保険掛けておけば、安心なんですよ。その当時はね、家畜保険ていうのは進歩していたんだね。これを例にして、農家を納得させるわけ。農家でなくても、馬は飼ってましたよ。トラックみたいな感覚で持ってたんだね。
そんなわけで、私は農家や、馬を飼ってる家々だの、田んぼを持ってる人だのとは、常に接触しているようになったんです。それに小野寺医院に勤めていた経験が役に立って、健康保険事務の関係もやれて、だんだんにいろいろな業務に馴れてきました。
このあたりの農家というのは、その当時は、稲作でも麦でも作ってるし、農業だけやってるわけじゃない、ここは漁業もやる、いろんなことをする、だから忙しい。毎年同じことしてるんだがつい、忘れるんです。一方、私は農共済に5年も10年もいて、事務をしていると、今が何の時期だ、何をやって、とかわかってくるわけで、農家に助言もできるようになるんです。農業改良試験場と仲良くしていると、いろんな勉強もできるので、多くの知識を頭に入れられました。そうすると今度は稲だって、「この稲はすこしおかしいぞ」など、見ても分かるわけだ。そういう時はどういう薬がいいとか、こっちも長年勉強して。それを今度は指導してやる。そういう風にだんだんと農家とも近しくなっていったんです。
苗作りだって進歩していったんですよ。当時は、水苗代って5月に田んぼに苗代を作っていましたが、だんだんに進歩して、田苗代だの、畑苗代だの作るようになりました。「苗代半作」(苗を上手に作れば半分できたようなものだ)って、苗を上手に作らないといいものができないわけ。それを長い期間勉強して習得し、それを今度は他人に教えながら、やってきたんです。
まあ、ずっと勉強なんですよ。いろんなことを学ばなければね。家畜保険もやる、稲もやる、青年団もやる、それから体育関係もやる、いろんなことをしながら、町のみなさんのことが、だいだいわかってくるんです。どこの田んぼがどこにあるか、どこの住宅がどこにあるか、全部わかってくるんです。そうして年を重ねてきたんです。仕事をしながら人のためにも働く。
この手ぬぐい、「本吉地区冷害基金」って書いてありますよね。昭和55年。勤めてかなり時間が経っている頃です。このころ、この地域で一粒のコメもとれない年があった。それが昭和55年だったんです。これを見つけてね、思い出しました。ほんとに苦労したのをね。
家畜共済の分野では、NOSAI獣医師の診療へのコンピューター導入に加え、家畜診療巡回車を整備して、診療業務に加え、損害防止の観点から血液検査や飼料給与診断などに基づき、飼養管理などの指導を行っています。また、地域の青年や女性の交流の場作りや、パソコン教室、各種イベントの開催などのサービス活動も「幅広い損害防止活動」の一環として位置づけて積極的な取り組みを進めています。(農業共済 NOSAIホームページより)
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