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私が兵隊へ行ったのが、1942年の12月1日です。最初は仙台です。20歳になると兵隊に行くんです。
まず、徴兵検査があります。20歳になると、検査を受けて、甲種合格→第一乙種→第二乙種・・・って言ってね、それで召集されます。私はその頃から、耳がちょっと悪かったから、第一乙種でした。
私たちは、徴兵検査が終わるとすぐに連れて行かれました。陸軍です。仙台の歩兵第四連隊。その時は、大何連隊なんて言わなくて、「橘」(たちばな)と呼ばれていました。何人くらいの連隊か?とか、どこから船に乗ったとか?覚えていませんね。わかりっこないです。赤紙で連れて行かれる二等兵に、わかるわけがないです。
昔は、田舎でも「歓呼の声に送られて」って歌があるでしょう?神社で祈願祭をして、そうして送られました。仙台から出て、船に乗って中国へ渡りました。上陸してからは汽車で移動しました。終戦まで中国にいました。
終戦は、昭和20年の8月15日だね。その時私は、関東軍咸陽(かんとんぐんかんよう)部署にいました。
そこから今度は日本へ還されるために、ぶよう(武陽)ってところに渡りました。そこから、がくよう(岳陽)まで揚子江を下りました。
渡るのは夜でした。ちょうど私たちがね、一緒に渡っていた人がね、川へ落ちたんです。他所の部隊の人です。それで、私はその時ね、一緒に船で渡る人が揚子江に落ちた。私は、背嚢(はいのう)ってリュックを背負っていたんだけど、そいつだけを脱いでね、川へ飛び込んで、その人を助けたんです。助けた人の名前は別の部隊だからわからないです。一人を助け上げたら、もう一人流れてきたから、その時二人助けたんです。後の一人は同じ部隊の人でした。その人は「いながきまさみ」という陸軍将兵でした。陸軍少尉だから、私より年齢が上の人だと思います。泳ぐのが得意だったとかそういうんではなくて、偶然と奇跡が一致したわけだ!ま、偶然助けたってわけです。
それで、そうしたら、後から表彰されたんです。派遣軍総司令官陸軍大将中三尉勲一等功二級岡部直三郎(おかべなおざぶろう、陸軍大将。1887–1946)という方から表彰状をいただきました。部隊長から頂いた表彰状もあったんです。全部津波で流されてしまいました。
私たちは、中国へ行っていたために、3年半でも、軍人恩給なんてつかないんです。なぜか?というとね、中国は加算の対象にならないの。ソ連や南方へ行った人は加算がついたんだけどね。私たちはつかないんです。
戦争中、中国で貯金をしたんですが、その通帳の番号だけは覚えていてね、通帳はないんですよ、でも番号だけ「熊本貯金千丸六七六」っていう番号だけね、それで、全部ではないけれど、帰ってきてからお金を下ろしたこともあります。70年経っても覚えているんですね。
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