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実家は農業。ああ。おめぇたちに言ってもわかんねぇなあ。その頃は機械も何もないから、田を起こすのにも、荷物を積むのにも、馬を使ったのさぁ。農家はどこにも馬がいたの。お父さんは、その馬の、荷物を積む荷鞍の、その中に入れる「タバサミ」(鞍薦(くらこも)というが、この地方では「タバサミ」とも呼んでいた)っていうのを作ってたの。ガバでね。ガバっていうのはね、因幡の白うさぎのガバだよ、♪ガーバにく~るまれ♪って、あの。穂が綿にくるまれとって、綿(わた)みたいになるの。ガバっていうけど、ガマだね。なんとなくわかる? それでね、自分で荷鞍を作って、それを売ってたの。
うちのお父さんは荷鞍のタバサミを作ってお金を取って(現金を稼いで)たけど、その頃、お金取り(労働力を提供して賃金をもらうこと)っていうのはそんなに無かったの。それが、昭和8(1933)年、二十一浜にね、津波が来たんです。そのあと、堤防を拵(こしら)えんのが土方で、それやって金取りが始まったんだって、聞いてたのさ。私はそんときは子どもだから、そんな「金取り」の意味なんか考えなかった。うちのお父さんは、農家やって、農家の仕事が終わったらば、荷鞍のタバサミを拵えに行商に出っから、土方はやんないの。農閑期に何もしない人は、二十一浜の堤防の土方に金取りに行ったね。
農家はね、毎年、荷鞍を左右とも、両方、新調するの。毎年のことだから、農家の家々では、タバサミの材料のガマを刈って、乾かしておいたのを置いておくの。
冬に農作業をしなくなると、お父さんは登米だの横山だのに出て、ずうっと家を空けて出稼ぎです。毎年(まいねん)毎年(まいねん)、ずっと、タバサミを作り作り、一軒ずつ行くんだ。お金もらって、そのお金でどこかに泊まりながら行商するんです。出稼ぎは、柳沢から始まって、大盤峠を越えて、横山(登米市)まで行ったんですよ。自動車が通んない前、昔だからね。雪も降ったそうです。横山にたどり着く頃には、お正月、昔は旧のお正月だから2月になるんですよ。
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