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勤めた当時は、電報の配達も仕事でした。まだ三公社五現業の前の逓信省(ていしんしょう)の時代です。電報は夜に多いので、宿直もありました。電話の取次ぎも仕事でした。呼び出しなんてまだ無い時代です。「どこそれさ行って、電話かけるように頼んでけろ」なんて電話がかかってくると、それを知らせに行くとか、サービスですね。戦時中、私が勤めた頃は、電話も役場と漁業協同組合と農業課の3つしかありませんでした。
空襲警報もまず郵便局に知らせが来て、それから役場へ知らせて、サイレンを鳴らす。まずは志津川の郵便局へ連絡が来て、そこから枝葉に分かれたんだね。
電話も段々増えてくると、一度に数が重なると、シャッターが下りて、警察と役場の電話しか使えなくなるとか、そんなこともありました。後は、電話が混んで通じないので、「特急」とか「急報」とか「普通」とか料金が違うんです。早く電話をかけたければ料金を高く出して「特急」、そうすると「普通」の人より先になる。そういう時代でした。
「縦の糸はあなた、横の糸は私──夫婦の自分史」千葉貞雄さん・きちよさん
[宮城県本吉郡南三陸町歌津伊里前]昭和4(1929)年生まれ
私たちは、入学の時は国民学校です。昭和20(1945)年、小学校2年生の時に終戦になりました。
終戦になる1カ月前かな? 大谷の海があって堤防がずっとあって、そこにパルプ船、山の木を伐ったのを積む大きな船があったんです。その船にアメリカの飛行機が飛んで来て空襲警報が鳴って爆弾を落とした。7月21日です。
私が囲炉裏で膝をついて、おばあちゃんに湯のみを出して「お湯ちょうだい」ってした、ちょうどその時に爆弾が落ちたの。直ぐ近くのことだからビックリしてしまって、ビックリした勢いで耳に熱湯を注いでしまって鼓膜が焼けてしまいました。だから、今は補聴器を使っています。
小学校2年生で終戦を迎えたので、それからは大谷小学校です。同じ学校なのに名前が変わったの。教科書も立派な紙じゃなくて、バラ版、茶色の紙でガリ版印刷みたいなもので、直ぐに壊れてしまって。カバンもランドセルなんだけど、紙でできたランドセルでした。半年も持たないうちに蓋がもげちゃう! 色だけは赤かったです。女の子が赤、男の子が黒でした。
今のランドセルは6年間持っても新品みたいだけど、紙のランドセルは毎日使っているとボロボロになってくるの。画用紙を張り合わせたような感じでしたね。
私たちの学年は、最初は110人でした。それが、近くに「大谷金山」があるから家族みんなで働きに来る人がいたり、都会は空襲が激しくなってあちこちの家へ疎開してくる人がいたりで、学年159人まで急に増えました。
「埴生の宿 Home, Sweet Home」幸田理子さん(仮名)
[宮城県気仙沼市本吉町]昭和12(1937)年生まれ
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