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昭和19年のことです。学徒動員で、みんな日立製作所に行って、軍需物資を作っていたんですが、そこが米軍の艦砲射撃(かんぽうしゃげき)にあって、工場が壊滅したので、そこにいられなくなったんです。
そのあと、昭和20年4月に現役として入隊して千葉に行ったんです。この部隊は、硫黄島に逆上陸する部隊、つまり硫黄島奪還作戦のための、死を覚悟したものでした。なので、「認識票」っていう小判型の金属片に番号を書いたものを持たされたんです。戦争に行って、たとえ爆死して体がなくなっても、その認識票で誰だかって確認できるようにです。だから、前線に行くのと同じだったんです。入隊後、最後の家族面談が許されたときに、親父が面会に来て、激戦地に行くので生還は難しい、と言うと「みんな死ぬんだな。捕虜にだけはなるなよ」と言って寂しげに帰っていったのを覚えています。
けれど、船もなにもなくなって、硫黄島に行くにもいけない状態になったので、作戦は中止になりました。それで本土防衛部隊に編成されたけれど、幹部候補生だったから当地活動をしていても、ほんとの兵隊の訓練ばかりやっていましたね。
結局、8月に終戦になって、9月の4日に帰ってきた。除隊です。
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