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私たちは、入学の時は国民学校です。昭和20(1945)年、小学校2年生の時に終戦になりました。
終戦になる1カ月前かな? 大谷の海があって堤防がずっとあって、そこにパルプ船、山の木を伐ったのを積む大きな船があったんです。その船にアメリカの飛行機が飛んで来て空襲警報が鳴って爆弾を落とした。7月21日です。
私が囲炉裏で膝をついて、おばあちゃんに湯のみを出して「お湯ちょうだい」ってした、ちょうどその時に爆弾が落ちたの。直ぐ近くのことだからビックリしてしまって、ビックリした勢いで耳に熱湯を注いでしまって鼓膜が焼けてしまいました。だから、今は補聴器を使っています。
小学校2年生で終戦を迎えたので、それからは大谷小学校です。同じ学校なのに名前が変わったの。教科書も立派な紙じゃなくて、バラ版、茶色の紙でガリ版印刷みたいなもので、直ぐに壊れてしまって。カバンもランドセルなんだけど、紙でできたランドセルでした。半年も持たないうちに蓋がもげちゃう! 色だけは赤かったです。女の子が赤、男の子が黒でした。
今のランドセルは6年間持っても新品みたいだけど、紙のランドセルは毎日使っているとボロボロになってくるの。画用紙を張り合わせたような感じでしたね。
私たちの学年は、最初は110人でした。それが、近くに「大谷金山」があるから家族みんなで働きに来る人がいたり、都会は空襲が激しくなってあちこちの家へ疎開してくる人がいたりで、学年159人まで急に増えました。
「埴生の宿 Home, Sweet Home」幸田理子さん(仮名)
[宮城県気仙沼市本吉町]昭和12(1937)年生まれ
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