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ラジオの前に、私たちきょうだいみんなここに正座して、天皇陛下の玉音放送を聞いたのは小学校5年生の8月15日のことでした。「ああ、日本は負けた、負けたー」って、子ども心にも悔しく、泣いた覚えがあります。
父は終戦の1年前に綏化より北の町にまた転勤になっていました。終戦の直前に、部下に届いた召集令状を渡しに哈爾濱(ハルピン)に行って勤務地に帰る途中、通過するはずの綏化の駅で、かなりのスピードを出して走っていた汽車から飛び降り、石炭の上に落ちたのでけがもせず、社宅に戻ってきました。なんとその翌日から満鉄の列車は動かなくなってしまったのです。虫の知らせというか、父に言わせると「なんだか急に無性に家に帰りたくなった」と言っていました。そのまま家に帰らずにいたら、生きては戻ってこられなかったでしょう。そのときのことは、父が後日客人に話しているのを聞いてあとで知ったのです。父はそれきりこちらが聞いても何も話しませんでした。記録も残してほしかったのですが、何も残してはいません。
当時家には、両親と、長男の私、9歳の恵子、6歳の京子、4歳の哲男、3歳のサチ子、そして乳飲み子の勝子と5人の子どもがいましたので、父がもし帰ってこなくて男手のない家庭になっていたら、この後、満州から逃げる1年の間に、みんな野垂れ死にしていたと思うんです。実際に男手のいない家庭は逃げきれないで死んでいったのです。
終戦の日を迎えたのは、は中学2年の時、私は15歳でした。
当時の中学校は入るのは大変だったんですよ。競争率が4.6倍でしたからね。今なんて1倍あるかないかの競争率で騒いでいますけど、昔は4~5倍ぐらいが普通だったんです。1学年3クラス40人ずつ、合計130人くらいいたと思います。私は2年でしたが、兄のいた4~5年生は学徒動員で、授業しないで、全員、軍需工場に引っ張られていきました。「戦を支えねば駄目だ」という、軍隊主義だったんだね。みんな洗脳されて、オウムと同じですよ。昔の人たちは、「それこそ天皇陛下万歳」の万歳組です(笑)。
8月15日、私たちは生徒全員で長沼(ながぬま:登米市迫町)に行って勤労奉仕をしていました。山を開墾してたんですね。その近くの店で、玉音放送を聞かされましたが、何を意味するのかよくわかんなかったですね。「負けた」って言う人と「そんなことないでしょ」って言う人もいましたし(笑)。
「風の中、土に悠々と立つ──銀行マンの見た登米・志津川」須藤衛作さん(仮名)
[宮城県本吉郡南三陸町志津川]昭和7(1932)年生まれ
生まれは昭和13(1938)年8月31日です。ちょうど73歳です。宮城県本吉郡歌津字伊里前です。ずっと地元で生活してきました。
兄弟は、弟と2人です。兄がいたんですが、5歳で亡くなっていますから、両親と弟と4人家族です。父は役場職員でした。
半農で農業を少しと、役場の職員という感じです。「歌津町史」にも載っています。町役場では助役を務めていました。農業は主に田んぼをしていました。
私が小さい時、父は軍国主義者っていうか、当時の大人はそういう風だから、小学校へ入る前に仙台へ閲兵式を見に連れて行ってもらったことがあって、その時、偉い人たちは馬に乗って衛兵は銃を肩に行進していて、それを見て親父に「お前は歩くより馬に乗る方にならないと駄目だ」と言われました。
親父が偉いとかそういうことではなくて、そういう時代。で、そんな親父だから戦争に負けた時、1週間飲まず食わずになって「このままだと親父が死んじゃうぞ」と子ども心に思いましたね。当時はラジオがまだ珍しくて殆ど無かった時代だから、ウチの前に近所の人たちが集まって玉音放送を聞きました。玉音放送は、明らかに国民に対する謝罪の言葉だと思いました。「申し訳ない」というね。私はわかりましたよ。
親父が飲まず食わずになったのも、「申し訳ない」という気持ちだったんだと思います。本当に飲みも食いもしなくて、頑固でしたね。赤紙が来て応召して、戦地へ送り出して、中には戦死した方もいたわけだから、「申し訳ない」と感じたんではないでしょうか。
津波の前に、たまたま親父の写真を整理した時に、「村葬」って言って、歌津村葬っていうのをやったんだけど、山内さんという方の旗(のぼり)の写真が見つかって、その家の方に「あるか?」って聞いたら「無い」というので大きく引き伸ばしてお渡して、喜んでもらったことを思い出しました。
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