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銀行に勤めたのは、末っ子ということもあります。いくら実家を手伝ったところで、腰ばかり痛くて、家督でなければ1銭にもならないから。朝からネクタイ締めて出掛ける、そちらの方がいいなって(笑)。
私が入った銀行は、入行した頃は、「振興相互銀行」って名前でした。相互銀行となる前は「振興無尽(むじん)会社」と言っていたのです。無尽という制度は、都会にもあって、「頼母子(たのむし)講」とも言いました。無尽会社は各都道府県に3つも4つもありました。
無尽というのは、
1)毎月1万円ずつ出して3人だったら3万円集まったら使えるようになる(「用立て」になるという)。
2)くじを引いてあたった人が一番先に使える。
3)使った人は利息は決めようだが、たとえば10,000円あたり500円にすると、次の月には借りた30,000円と利息の1,500円を足して、31,500円となる。
4)次につかう人は31,500円使う。残りの2人の人はまたくじ引いて、2回目に当たった人は31,500円使えるから1,500円儲かります。
5)3回目は満期。2回目に当たった人がまた利息を2人分1,000円払うから、元本が多くなるわけです。32,500円払う。いったん配当を受けると次回からはくじ引きに参加できず、メンバーは人数×カ月で無尽が一巡するうちに、それぞれ1回ずつ配当金を受け取ることになります。
くじに当たらない人でどうしてもそのお金が必要な人は、金利を上乗せて「どうしても譲ってけろ」って、当たった人から買い取るんです。
これは3人の例ですが、会社になると、50人単位でより高額な金額でやるんです。それを無尽会社が管理し、事業に使ったりしたんです。
無尽会社ってのは、無尽に参加していない人に貸したり預けたりはできません。それで昭和26(1951)年、「相互銀行」になり、預金も預かってよいということになり、「貸出金」というものも出てきました。そのころ私が入社して2年目くらいだったかと思います。これがさらに、昭和64(1989)年、第二地方銀行「仙台銀行」となったんですね。
「風の中、土に悠々と立つ──銀行マンの見た登米・志津川」須藤衛作さん(仮名)
[宮城県本吉郡南三陸町志津川]昭和7(1932)年生まれ
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