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歌津に居る人は、みんな侍の子孫だから、融通の利かないところもあるけれと、良い人間だと、いまでも思ってますよ!
頼朝に従って藤原征伐にきて、領地を貰って百姓しながら、「いざ鎌倉」に備えたっていう家の子孫ですからね。当時の有名な侍は、歌津十二人衆といって歌津一帯に勢力をもっていたんです。新しく領主になった伊達政宗によって、葛西矛の武将が集められて、だまし討ちをされ、全員討ち死にしたんです。その後、伊達藩の直轄になってたわけですよ。歌津って所はね。
源の姓はこの辺では自分の家を含めて3軒あって、源氏の流れを汲むという逸話があるんですよ。
平泉が栄えるより前の時代、11世紀ごろに、源義家(みなもとのよしいえ)一行が通過する時に一族の姉妹2人が足でまといなので、命令されてこの地に残り、それが先祖となった、といういわれがあります。そのほかにも、源義経(みなもとのよしつね)が奥州に逃れた時期、兄の頼朝(よりとも)が奥州征伐に乗り出した時期と、11世紀~12世紀にかけ数回にわたり、源姓を名乗る人々がこの地を往来しました。その中でこの地に根を下ろした人々が我が家の祖先だと思うんです。
自分でも調べてみたんですが、菩提寺は、源頼光(みなもとのよりみつ)という人が建て、その名にちなんで頼光寺(らいこうじ)(写真、宮城県登米市東和町米川字町6)となっているというんですね。そのお寺も2回くらい火災を起こして、ある時代より古い資料は無くなったので、調査が行き詰まってしまいました。
だとしても、「源」なんて、何か理由がなければ勝手に名乗れない苗字だと思います。系図もあったらしいが、当時家柄が重要視される時代があって、土地と同じように自分の家も系図を売ってしまったようです。なので、証拠になるものはお墓しかありませんが、年号をみると600年くらい前のものがある。そのお墓があるということは先祖が生きていた時代はもっと古いので年代的には合っているし、由緒は正しいと信じていますね。
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