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ラジオの前に、私たちきょうだいみんなここに正座して、天皇陛下の玉音放送を聞いたのは小学校5年生の8月15日のことでした。「ああ、日本は負けた、負けたー」って、子ども心にも悔しく、泣いた覚えがあります。
父は終戦の1年前に綏化より北の町にまた転勤になっていました。終戦の直前に、部下に届いた召集令状を渡しに哈爾濱(ハルピン)に行って勤務地に帰る途中、通過するはずの綏化の駅で、かなりのスピードを出して走っていた汽車から飛び降り、石炭の上に落ちたのでけがもせず、社宅に戻ってきました。なんとその翌日から満鉄の列車は動かなくなってしまったのです。虫の知らせというか、父に言わせると「なんだか急に無性に家に帰りたくなった」と言っていました。そのまま家に帰らずにいたら、生きては戻ってこられなかったでしょう。そのときのことは、父が後日客人に話しているのを聞いてあとで知ったのです。父はそれきりこちらが聞いても何も話しませんでした。記録も残してほしかったのですが、何も残してはいません。
当時家には、両親と、長男の私、9歳の恵子、6歳の京子、4歳の哲男、3歳のサチ子、そして乳飲み子の勝子と5人の子どもがいましたので、父がもし帰ってこなくて男手のない家庭になっていたら、この後、満州から逃げる1年の間に、みんな野垂れ死にしていたと思うんです。実際に男手のいない家庭は逃げきれないで死んでいったのです。
そして翌年昭和10(1935)年3月20日、奉天、今は瀋陽っていいますけど、そのそばの鉄嶺(てつれい)(=現中華人民共和国遼寧省)というところで、長男として私が生れました。けれど、3歳で哈爾濱と長春の間にある徳恵(とっけい)という町が父の勤務地となり、そこに引っ越してきました。物心付いた時には徳恵に住んでいたので、鉄嶺のことはぜんぜんわからないですね。
そして私は徳恵の小学校に入りました。その頃は日本人が満州を支配していたので、日本人だけの学校であり、日本の教科書と同じものを使って勉強しました。私が入学する前の1年生の教科書は「サイタサイタ サクラガサイタ」で始まりましたが、私たちは「アカイ アカイ アサヒガノボル」で始まる教科書になったんです。日本は神の国、アメリカやイギリスは鬼だと教えられたんです。3年生、4年生の授業では敵を玉砕するんだっていう教育を受けてきたし、学校卒業したら予科練(注※)が有名だったから、予科練に入るんだ、と思っていましたね。
さらに、何カ月お風呂にも入れない最悪の衛生状態で、みんな身体中垢だらけになって、その体についた虱が媒介して発疹チフスにかかって毎日死ぬ人が出ました。うちの妹のサチ子がかかってしまい、「腹減った・・何か食べたい・・何か食べたい・・」と言っていましたが、静かになったと思ったら、次の朝になったら死んでいました。3歳でした。
死んでもどうすることもできず、お葬式も何もできないのです。毎日誰かが死ぬ、それも何10人と死ぬわけです。毎日、毎日、あっちも死んだ、こっちも死んだって。亡骸は、学校の裏山にただ穴を掘って埋めてそれで終わり。仕方がないのです。明日は自分が発疹チフスにかかって死ぬかもしれないんだから・・。
徳恵は冬になると零下20度、30度になります。私は小さい時から本当に体が弱くて、病気ばかりしていたのですが、5歳になったときに、父からスケートを教えてもらうようになりました。冬になると小学校の校庭に夜のうちにパーッと水撒いておくと、もう、一晩でスケートリンクができる。電気をつけて、毎晩、父に連れられて、スケートをしたことを覚えてますね(笑)。贅沢なことでした。そのおかげで、1年生から4年生まで、校内のスピードスケートの大会では負けたことがなかった。ずっと一番だったんです。そのことを孫にも言ってきかせたりするんですよ(笑)。
その後、父が助役をしていたために転勤、転勤で、4年生になったときに綏化(すいか)という町に引っ越しました。綏化では満鉄の社宅に住んでいました。赤いレンガの平屋建てで、2軒が一棟になっている建物が並んでいました。間取りはだいたい覚えています。
石炭を焚くと、中央の丸いペチカが家全体を暖め、冬でも裸で過ごせるほどでした。石炭ではお風呂も沸かせました。台所の横の畳の部屋には、棚とその上にラジオがありました。南側が庭のようになっていて、夏は洗濯物を干したりしましたが冬は室内干しです。ドアは3重に、窓は2重になっていました。
父はその後、夢を抱いて陸軍に入り、満州に渡って、司官である軍曹まで階級が上がりました。しかし当時は、大勢の軍曹が在籍していて、そこから次の階級の曹長になれるかどうかわからないので、転職しようということになり、気仙沼の人の紹介で、「満鉄(南満州鉄道)の社員を募集しているから」ということで、昭和9(1934)年、満州に渡り満鉄に入社しました。そこからは順調に昇進して満鉄工務区の助役にまで出世したのです。
満鉄である程度生活も安定したところで、「そろそろ嫁を貰っても」ということで、米川の実家「曲家(まがりや)」の200メートルも離れていない、「すまこ」という屋号の家の娘の母との結婚話が持ち上がりました。けれど父が満州にいるので、嫁に貰うことを決めた後も結婚式ができなくて、一緒に住まわせるのに、兄の秀吉が母を満州まで連れて行って、父のところに置いて帰ってきたんです。ほんとに田舎爺様(ずんつぁま)だったから、背広も何も持っていないから、モンペをはいた身なりで、どうやって行ったのかもわからないけど、当時としてはよくやったと思いますね。
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