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春になると「日本に帰るから広場に集まれ」と言われてまたみんな集合しました。
みんな骨と皮ばかりに痩せこけて、途中で脱落していった方々もありました。旦那さんを亡くして、好き好んでではなく、生きるためにやむを得ず満州人と結婚した女性たちもいました。その方たちがどうなったかはわかりません。
そして再び貨車に乗せられ、南へ南へと走りました。今度は朝鮮寄りの葫蘆島(ころとう)というところに着きました。そこから船に乗せられるときは「ああ、やっと日本に帰るんだな、今度こそ日本に帰るんだな」と本当に嬉しかった。
その船は「宵月(よいづき)」という駆逐艦で、造船して一度も戦争に使われないまま終戦になってしまったという船だったと、乗組員の方に聞きました。もとが駆逐艦ですから、42ノットくらいのスピードが出て、客船を追い越して気持ち良い速さで波を蹴っていくのです。そして船は舞鶴に立ち寄りながら、2日かけて博多までやってきました。
ラジオの前に、私たちきょうだいみんなここに正座して、天皇陛下の玉音放送を聞いたのは小学校5年生の8月15日のことでした。「ああ、日本は負けた、負けたー」って、子ども心にも悔しく、泣いた覚えがあります。
父は終戦の1年前に綏化より北の町にまた転勤になっていました。終戦の直前に、部下に届いた召集令状を渡しに哈爾濱(ハルピン)に行って勤務地に帰る途中、通過するはずの綏化の駅で、かなりのスピードを出して走っていた汽車から飛び降り、石炭の上に落ちたのでけがもせず、社宅に戻ってきました。なんとその翌日から満鉄の列車は動かなくなってしまったのです。虫の知らせというか、父に言わせると「なんだか急に無性に家に帰りたくなった」と言っていました。そのまま家に帰らずにいたら、生きては戻ってこられなかったでしょう。そのときのことは、父が後日客人に話しているのを聞いてあとで知ったのです。父はそれきりこちらが聞いても何も話しませんでした。記録も残してほしかったのですが、何も残してはいません。
当時家には、両親と、長男の私、9歳の恵子、6歳の京子、4歳の哲男、3歳のサチ子、そして乳飲み子の勝子と5人の子どもがいましたので、父がもし帰ってこなくて男手のない家庭になっていたら、この後、満州から逃げる1年の間に、みんな野垂れ死にしていたと思うんです。実際に男手のいない家庭は逃げきれないで死んでいったのです。
そして翌年昭和10(1935)年3月20日、奉天、今は瀋陽っていいますけど、そのそばの鉄嶺(てつれい)(=現中華人民共和国遼寧省)というところで、長男として私が生れました。けれど、3歳で哈爾濱と長春の間にある徳恵(とっけい)という町が父の勤務地となり、そこに引っ越してきました。物心付いた時には徳恵に住んでいたので、鉄嶺のことはぜんぜんわからないですね。
そして私は徳恵の小学校に入りました。その頃は日本人が満州を支配していたので、日本人だけの学校であり、日本の教科書と同じものを使って勉強しました。私が入学する前の1年生の教科書は「サイタサイタ サクラガサイタ」で始まりましたが、私たちは「アカイ アカイ アサヒガノボル」で始まる教科書になったんです。日本は神の国、アメリカやイギリスは鬼だと教えられたんです。3年生、4年生の授業では敵を玉砕するんだっていう教育を受けてきたし、学校卒業したら予科練(注※)が有名だったから、予科練に入るんだ、と思っていましたね。
さらに、何カ月お風呂にも入れない最悪の衛生状態で、みんな身体中垢だらけになって、その体についた虱が媒介して発疹チフスにかかって毎日死ぬ人が出ました。うちの妹のサチ子がかかってしまい、「腹減った・・何か食べたい・・何か食べたい・・」と言っていましたが、静かになったと思ったら、次の朝になったら死んでいました。3歳でした。
死んでもどうすることもできず、お葬式も何もできないのです。毎日誰かが死ぬ、それも何10人と死ぬわけです。毎日、毎日、あっちも死んだ、こっちも死んだって。亡骸は、学校の裏山にただ穴を掘って埋めてそれで終わり。仕方がないのです。明日は自分が発疹チフスにかかって死ぬかもしれないんだから・・。
徳恵は冬になると零下20度、30度になります。私は小さい時から本当に体が弱くて、病気ばかりしていたのですが、5歳になったときに、父からスケートを教えてもらうようになりました。冬になると小学校の校庭に夜のうちにパーッと水撒いておくと、もう、一晩でスケートリンクができる。電気をつけて、毎晩、父に連れられて、スケートをしたことを覚えてますね(笑)。贅沢なことでした。そのおかげで、1年生から4年生まで、校内のスピードスケートの大会では負けたことがなかった。ずっと一番だったんです。そのことを孫にも言ってきかせたりするんですよ(笑)。
その後、父が助役をしていたために転勤、転勤で、4年生になったときに綏化(すいか)という町に引っ越しました。綏化では満鉄の社宅に住んでいました。赤いレンガの平屋建てで、2軒が一棟になっている建物が並んでいました。間取りはだいたい覚えています。
石炭を焚くと、中央の丸いペチカが家全体を暖め、冬でも裸で過ごせるほどでした。石炭ではお風呂も沸かせました。台所の横の畳の部屋には、棚とその上にラジオがありました。南側が庭のようになっていて、夏は洗濯物を干したりしましたが冬は室内干しです。ドアは3重に、窓は2重になっていました。
現地の満州人が日本人の赤ちゃんが欲しくて、いっぱい建物の玄関に来ているんですね。彼らはアワだの高粱(こうりゃん)だのだけど、満足に食べていたのです。そこで小さい子を持つ親たちは、1歳か2歳くらいの子どもたちを現地の満州人にくれたんです。「お乳も出ないし、食べるものもないし、もう自分は明日死ぬかもしれない。自分が死んでもせめてこの子どもだけは・・」という思いです。満州人はもらった子をとても大切にしてくれました。満足に食べさせて、「ほら、このように元気だよ」と、子どもを抱いて毎日見せに連れてきたんです。その後、帰国をあきらめていた親たちが帰国して、その結果、その子どもたちがいわゆる「中国残留日本人孤児(残留孤児)」になったのです。
一方で、「一家で帰国することができない」と悲観して、どこからかダイナマイトを持ってきて、一家全員を帯で締めて、バーンと自爆して死んだ人たちもいました。
戦後、私の地元の小学校である先生の講演があった時、その先生が「子どもを置いてきた親の気持ちがわからない」と言ったことがありました。私はそれに反論したい。親が「あす死ぬかもしれない、せめて、この子だけは」と思う心情は、あの場にいなければちょっとわからないものだと思うのです。仕方がなかったと思うのです。でも子どもを捨てるというと日本では非難を受けるかもしれない。だから誰にも言えなくて、「子どもは死んだ」と言って帰ってきたのでしょう。だから、たとえ残留孤児の新聞や報道で、「私はあの子の親だな、あの子が私の子だな」と思っても、名乗りを上げられない人がいっぱいいたと思うんです。
そして私は、宮城県の社会福祉課の委託を受けて、登米市と栗原郡の中国残留婦人の生活相談員になっています。残留婦人から話を聴いていると本当にかわいそうに思うのです。
ある方は、昭和17~18(1942~43)年頃、宮城県の「満州の花嫁募集」というのを見て、花嫁修業ができると聞いて20代で満州に渡ったそうなんです。今は日中・日韓関係が非常に悪いですが、当時としては大陸は日本の憧れ、成功の国だったわけです。その頃、満蒙開拓団といって、若い男性を満州北部の不毛の地に送り込んで開拓させたんです。そのお嫁さん候補として募集されたんです。それが何かもわからずに、自分の家が貧乏なので、満州で一旗揚げようと思って渡ったのです。その方以外にも20人くらい行ったそうなんです。
そして満州に着くと、花嫁修業もお見合いもあったものではなく、「あんたはここ、あんたはここ」と、顔も合わせない性格もわからない男の人のところに強制的に行かされたそうです。住まいは電気も何もなく、床は藁の掘っ立て小屋で、生きていくために毎日開墾、開墾って鍬で土地を掘り返すだけ。そのあたりのことはその方も詳しくは話さないですね。子どもが生まれて1年も経たないうちに旦那さんに召集令状が来ましたが、その方は2人目の子どもを身ごもっていました。母子で生活して行かなければならなくなりました。
終戦の声がする頃の開拓団の人ほどみじめなものはありませんでした。南下するソ連兵に追われて、みんなして南の方に逃げたのです。私が満州の綏化に暮らしていた時も、グランド一杯に開拓団の人が避難してきていて、「食べるものが欲しい」と言ってきたので分けたことがありました。その方も旦那さんのいないまま子どもの手を引いて、身重の体で、列車も無いから歩いて歩いて、どこをどう歩いたかもわからないうちに陣痛が来てしまった。子どもを産んで、そしてすぐにその子どもの首を絞めて殺して、穴を掘って埋めて、そしてまた、開拓団のみんなに送れないようにと歩き出す。だけどみんなどんどん先に行ってしまうのです。遂に力尽きて倒れてしまったんだそうです。
取り残されてしまい、手を引いていた子どもが声を上げて泣いていたら、そこに若い男性が通りかかって、2人を自分の家に連れて来て介抱してくれ、何日経ったかわからないけれど、目を開けるとお婆さんが煤が付いたように真っ黒い液体の入った茶碗を差し出して「飲め」と言っていました。すぐに「あらっ。私の子どもは?」と思ったのですが、子どもさんは若い男性と遊んでいたので安心すると同時に、「もう日本人は1人もいなくなってしまった」と悟ったんですね。その家は土間に藁を敷いたような貧しい農家でしたが、そのお婆さんと男性が優しかったので、結局その男性と一緒になって5人の子どもを産んだんだそうです。
昭和47(1972)年、田中角栄首相が日中国交正常化を実現してから、満州に住んでいる日本人が声を掛け合ったところ、「あら、あんたもいたのか、あんたもいたのか」というほど開拓団の花嫁の人たちがいたそうです。
現地の男性と結婚して家庭を持っていたので、その方は日本に帰るに帰られなくて、お婆さんと旦那さんが亡くなってから初めて日本の土を踏んだそうです。開拓団で結婚した男性は、結局復員して、別の女性と結婚していました。
この方ほど青春も何もない時代を過ごしてきた人がいるんだろうかと思うと、本当に気の毒だと思います。
私は、満州の引揚でほんとうに悲惨な体験をしましたが、現在は何の不自由もなく生活しています。このことで、せめて何かの恩返しと思って、日本語講座のボランティアや生活相談員を続けています。(談)
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