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小学校8年(国民学校初等科6年、高等科2年)を終えた僕は、家が貧しいもんですから、満州の南満州鉄道に行きまして、会社の養成施設の「大連鉄道学院」に2年間学びました。そこで1年目は有線電信を学び、2年目は運輸関係、列車に乗るほうを学びました。
卒業して勤務したのは、奉天(ほうてん)と大連(だいれん)の間の「許家屯(きょかとん)」駅でした。駅務員と称し、有線電信の係になったんです。大連と許家屯間は距離にして20キロくらいですかね。学校のあった大連には、配属後もしばしば行きました。大きな町ですよ。
許可屯は、周辺から果物がとれました。また、隣町に熊岳城(ゆうがくじょう)という、安東(あんとん)などとならぶ有名な温泉地がありましたね。熊岳城駅から歩いて10分くらいの、ここの温泉に休みに入るのが楽しみでしたね。
僕は休みになると、許可屯からふたつ先の熊岳城に行き、「馬車(マーチュー)」という、タクシー代わりの馬車に乗ってね、5~10分行くんです。
その温泉には傷痍軍人なんかよく来てましたね。そして砂湯に入ったり温泉場の湯の方に入ったりしてました。
あとね、その方たちから、検閲があるせいか、田舎の実家あての郵便物を「これ出して置いて下さい」と、よく頼まれましたね。
熊岳城の斜め横の方向に、望小山(ぼうしょうざん)という山があって、高さは地上から数えれば50メートルか、70メートルしかないような、なんでもないような饅頭型の山でしたが、伝説の山なんですよ。科挙の試験を受けるために、北京かどこかに勉強に行った息子を思って、母親が毎日のように望小山に登って祈り続け、待ち続けていたという有名な話があるんです。それで息子が何年待ってもね、まだ科挙に合格しないのか、帰らないでね。ついにそこで亡くなったと。
当時の満州の読本や、内地でもね、うんと出版されたはずです。
近所にね、鉄筋コンクリートの2階建ての洋式の「熊岳城ホテル」というのがあったけれど、用事もないから行かなかったですね。温泉に行く時はいつも、満州は寒いから、温まる飲み物を買って飲むんです。それに、コンビニはないけども、日本人が作ったいわば売店のようなものが、熊岳城駅にあったんですよ。そこに、お稲荷さんとのり巻きのね、詰め合わせが、プラスチックと似たような容器に入って売られていました。それを買って行きましたね。その頃が一番楽しかったですね!
うちのじいちゃんは、15、6年前に亡くなりましたが、今、小泉の海岸沿いに建物がぽつんってありますよね。あそこは前、かなり有名な遊園地(シーサイドパレス)だったんですよ。そこで働いていました。
あの建物の中には温泉があって、ボーリング場もあったし、動物もいたし。温泉はね、水族館みたいな大きな水槽があって、温泉に入りながらその水槽が見えるっていうのがウリだったんです。私も行きましたね。祖父が働いていたので、たまにこっそり入れてもらったりしてね(笑)。ボーリングは全然できませんが。この施設は昭和53年に閉園になりました。
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