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昭和8(1933)年3月3日、地震の日はまだ寒くて、雪が降っていたの。津波の上がったところだけは黒くなって、上がんないところは白い雪が残ってね。
津波が来たときは、私はまだ小学校に上がる前で、夜、お爺さんと一緒に寝てたけっども、お爺さんが私をおぶって逃げてたんだね。お爺さんは60歳ぐらいだったね。
家は流されねえの。下まで波が来たけど、流れねえの。だけっど、お爺さんが海岸で店ッコやってたの。雑貨屋。津波の前の日には、新しい店ッコの「建前(タテメエ)(新築の際に行われる神道の祭祀、いわゆる「上棟式」のこと。詳しくは後述)」までしたが、津波に流されてしまった。
小鯖に40年も50年も住んでて思うのは、私たちも家を流されたったら、やっぱり、ここには住みたくないですよね。最低でも気仙沼。病院のそば。そういうところを選びますよ。いくら子どもが仙台にいるたって、仙台まではとても・・。私たちの水に合わないから。この津波のあとも、やっぱり、ずいぶん多くの方が唐桑からも離れるんでないですかね。
昔のように子どもがあれば必ず、その子どもが跡継ぎしたもんだが、今はそうじゃないから、結局年老いた親が1人暮らしか2人暮らしになるわけだ。だから、まず、実際にその身になんないから、まだここにいるんだが、家が流されたったら、たぶんここにいないとおもいますよ。どうせ暮らすんだったら、お店が近いとか、病気になってもお医者さんに走って行けるとかね。何十年住んでなんでいまさら、って言われるべが、やっぱりねえ。
だからボランティアの人たちは、唐桑にしてみればなんてありがたい、こんな人の嫌がる瓦礫とかゴミとか、一生懸命汗水流して働いてくれるなんて、なんてありがたいんだろう。ほんとに感謝、感謝です。もしこんなことがどっかであったら、唐桑の人たちは進んで行くような人たちがほんとにあるんだろうかって。ないんでないかなあって。ボランティアの若い人たちに「お婆ちゃん、お婆ちゃん」って言われると、「なんとこの孫たちは・・」ってね(笑)。
ほんと、こんな津波なんてね、誰も予想しなかった。
津波のあった日は、お爺さんが気仙沼市立病院に入院してたんで、息子と見舞いに行って。「病院の食堂でお昼食べてんか」「そうしたほうがいいよね」って、お昼食べて、そしてジャスコで買い物して、それで帰って行ったの。
そしたら、安波(あんば)トンネル潜ったところで地震に遭ったんです。すんごく揺れてハンドルとられて大変だったの。とにかく動けなくなるくらい揺れたから、そして、みな信号が消えてしまったし、「あっ! この地震はただの地震で無い、津波が来っから、高台だ!」って私が騒いだんです。
車が前さも繋がるし、後ろもずっと繋がってしまったけれど、なんとか動いてね、そして高台の高校(東稜高校かと思われる)まで上がって行って、今晩の食べるおかず、パンだのいろいろ買ってたから、そんなの食べて、車の中で一晩過ごしたんです。
次の日、「唐桑に帰りたいんであれば、誘導して上げますよ」って方がいたんです。「もう一晩高校の体育館でお世話になるか・・」って言ってたんだが、そういう人が現れたもんで、「どうしても帰りたいな」って思ったんです。飲んでる薬もないし、「お願いします」って、誘導する車とうちの車ともう1台御崎さんのお姉ちゃんと3台繋がって、やっとのことで近所まで来たのね。それでも瓦礫があって家まで来れないから、親類の家で2晩目泊まって。「ごはんまだ食べないで来たの? おにぎり作ってたから」ってごちそうになって、お茶も貰って、「立派な布団でなくたっていいよ、その辺にあった布団でいいよ」って2晩目泊めて貰ったんです。
3日目にようやくここに来た。坂道は上がるに上がられないから、山の方回って、這って上がってきたの。そしたら、コップ1個も倒れてなかった。「もう、ガラスも何もかも落ちてんでねえか」って覚悟して来たけど、何にも壊れてない。あとで見たらお爺さんがこけしのような飾りものを、みんな倒れないように留めてたの。それでも茶碗も何もひとつも倒れてない。ここ、地盤が硬いんですよ。なんか、とんがった石が入り組んでいるところなのね、ここは。
小鯖の丘家は、明治と昭和と2回津波に流されたんだって。そのため、少し高いところに来たんだって。その家も古くなったから解体して建てましょうって、壊したわけだ。そして何日か経って、基礎工事始めたら、一晩のうちに工事してる所に、ダダダダって山が崩れてしまったのね。
もうそこには家なんか建てられないから、お姑さんが「また、下の畑さ(過去に津波で流された場所)建てべな」っていうから「お婆さん、下の畑は絶対反対。2回も流されて、何、下行くって。私は行きません」って。「どこ行くんや」「大工さんと相談します」って頑張ったの。
その頃、山の上はこんな杉とか松の山で、うっそうとしていたの。それを切って、突貫工事みたいにして、そして家建てたのが今の家です。私が46歳の時。昭和46年だから、46歳の時、ここへ来たの。なんでそれを鮮明に覚えてるかって言えば、そこのお姑さんに、「50歳前に家建てれば大丈夫、疲れない、頑張らい、頑張らい(頑張りなさい)」って言われた。
ここさ来るつもりも、何も無かったんだがね。下の畑か、この山しか土地がないから、仕方ないからここへきて。お姑さんが、下の畑さ家建てるって言ったら、背中がゾクゾク~っていったの。なんにも影も形もない、全部後ろから脇から、みんなに見られているようで、嫌だなって思ったね。「お義母さん、絶対反対。あのね、あそこさ、2回も津波に流されて、おら寝坊助で、地震があっても寝てっかもわかんないから、絶対行かねえから」って頑張った。お姑さんも、「ああ、そうか」って。そして、「もう、上さ建てるべえ」と行ったのさ。そしたら今度は津波でそこも崩れたもんだ。
あと砂利とか石は馬が運んでくれた。馬、転んでなあ(笑)・・1回坂のすぐそこで転んで、馬転ぶと1人では起きられないんだってね。綱かけてみんなで「ヨイショ、ヨイショ」って起こして。それを見て、私も昔人(むかしびと)だからね、「馬が転ぶなんて、何か悪いことあるんでねえか」と思って、神様さ行って拝んでもらったんです。そのこと、馬引っ張ってくるおじさんさ話してみたら、「アッハッハハア~」って笑い飛ばされた。「誰、そんなことある(誰にそんな縁起でもないことが起こるもんか)? 拝んでもらったって? 誰、そんなことある? アッハッハッハァ~」ってさんざん笑われた(笑)。
ここ、大工さんが8人も働いたのね。坂の下さ、米屋さんで牛乳売ってたのね。大工さんさ牛乳8本と、おやつも作って持って、上まで上がるのね。ビンの牛乳だから、結構重いですよね。それでも「疲れた」とも「大変だ」とも思わないで、「我が家が出る(出来上がる)んだ~」と思って、喜んで上がったもんだ。
お姑さん、新しい家に喜んでね。その頃、歳は70なんぼくらいになるかな。私が働きに出るわけだ、そしたら、私の留守の間に、自分の着物だのね、持ち物は、自分のものは、ひとりで背負って山の上の家に上げたよ。「これ、背負ってけろや~」なんて言わなかったね。全部自分で上げた。お爺さんが船で出ている間に引っ越したのね、女手だけで。金融機関から借金するのも、自分でやったのさ。学校も出ない、読みも数えも何もわかんないんだけど、わかんないば、聞けば教えるもんね。お爺さんさ、ちゃんと報告はするしね。んで、こうして、そうしてってお爺さんから言われれば「その通りにします」って、用足した。
3月11日は、税金申告が終わって、片付けをして、我々夫婦と息子と3人で家にいました。地震が来たとき、廊下の壁と壁の間に腕を広げてつかまりました。古い家だから潰れるんじゃないかと思いましたが、補強したから地震では大丈夫でした。物も殆ど落ちなかったのですが、店の酒なんか落ちて割れてしまいました。家はやっぱり補強してあると違うなと思いましたね。
子どもたちは高台の学校に行っていたので、良かったんです。家のすぐ近くに海円寺というお寺があったので。軽乗用車に2人で、まずそこに逃げましたが、地震が収まってすぐに警報が出たので、すぐ上の保育所まで車で登りました。息子はそこから志津川小学校まで逃げたんです。
私は呑気屋だから、とにかく自分の愛車が津波を被っては惜しいと思って、「ここなら絶対大丈夫だな」って思える高台まで持って行って、自宅にトコトコ戻り、記念硬貨だの何だの、アルバム、カメラ、ビデオ、米まで全部2階に運んだんです(笑)。「まだ、津波来ねぇんだな。おかしいなぁ」とは思いましたが、最初、波の高さは6mという放送だったんです。情報は変わっていったけど、こちらは停電だし、携帯も電波が全く駄目で、情報が分かんなくなってしまったんです。それから、誰が叫んだか分からないけど、「来たっ!」というが聞こえました。「それじゃあ逃げましょう」って、トコトコすこし高い場所に登って津波を眺めたんです。
そうしたら、「おお水来たぞ!」と言う間に、道路沿いに水が来て、追われるようにだんだん高いところに逃げてったんです。そして、木の間から、自分のうちが波を被り、潰れ、そしてうちの近く全部が「ビリビリビリビリ」って音を立てて潰れていく様子が見えました。私も本当に、あと3分逃げるのが遅かったら終わりだったんだなあと思いました。
我々は街の中だから海岸の様子は全然分からなかった。家の中で津波が来るのを待ってた人も沢山いるわけです。うちの前には45号線が入っていますが、その奥の役場の方に行ったところの部落は、うちから500メートルぐらいの距離なのに、チリ地震の時、津波が来なかったので、そこの人たちは逃げないでいたんです。津波が来てから騒いでも、余程足の速い人でないと間に合わない。皆、流されていってしまったんです。
逃げる前は、折角集めた趣味のものなどが濡れると勿体無いと思ったから、みんな2階に上げたんです。最初っから津波が40分後に来ます、って言われればね、車にみな積んで逃げたのに、とは思いました。けれど、頭に北海道の奥尻の津波のことがあったんです。津波は震源が近ければ「5、6分で来る」っていうことが。だから「急げ」となったわけです。
その判断が大事。町側は津波が何分後にくるのか、全然発表しなかったんですよ。後から聞いた話だけど、浜の人たちはね、津波の前に水が引いたから、津波が来るまでに30分かかるなどと分かったそうです。娘に聞くと、東京では津波到達時間の発表があったそうです。ラジオなんか持って逃げている人はそんなにいませんでした。逃げる時は必死で、家に2台も3台もあるラジオを持ってく余裕がないんです。その余裕というのはどっから来るかというと、情報なんですよね。
あの日の情報は、「逃げろ、逃げろ」の一点張りでした。もし「到達は何分後」とか、「何を持って逃げろ」とか言われれば持って行ったと思います。地震が終わったか終わらないかの内に慌てて逃げたから、丸裸ですよ。文字通り裸一貫。80年働いて何もなくなってしまったんですから(笑)
最終的には志津川小学校の避難所に皆集まりました。裏が山になっているから山越えをして小学校に集合したんです。そこから、水もなければ食料もない。薬も持ってこなかったので、飲めませんでした。5日間くらい薬がなかったんです。1週間くらい経った頃、眼下のお医者さんに頼んでなんとか薬を出してもらいました。金を払うといったんだけど、「お見舞いだからいらない」って受け取ってもらえませんでした。
1日目はあきらめというか開き直ったって気持ちでしたね。誰も泣かないし、みんな笑ってましたよ。
犬はいましたね。猫はいませんでしたが。
あきらめムードではありましたが、ただあんまり心配はしていませんでした。小学校の校舎にはタンクがあって、水だけはあったから、大事にして飲みました。ただ、寒くて寝られないんです。食料は当日は何もありませんでした。ビスケットをポケットに1つや2つ持っていたような人もいたけど、殆どの人は何もなしです。次の日の11時頃、やっとおにぎりが届きました。
たばこは吸えなかったのですが、2日くらいは吸えなくても大丈夫ということを経験しましたね。みんなで体育館にいたので、余震がずっとあったけど、みんなでいたら怖くないという気持ちでした。でも、全然眠れませんでした。ただ横になるだけです。
「風の中、土に悠々と立つ──銀行マンの見た登米・志津川」須藤衛作さん(仮名)
[宮城県本吉郡南三陸町志津川]昭和7(1932)年生まれ
結婚して志津川に行ったのは、私が27歳、これ(恵子さん)が23歳のときだったと思います。銀行に入ってから結婚しました。ちょうど伯母の家に子どもがなかったから、これが先に養女に入っていて、私が養子に入ったんです。
翌昭和35(1958)年、チリ地震津波がありました。義母を背負って、水のある所を走って逃げましたが材木がドンドン流されてくるんです。津波ってのは、川沿いが一番水の流れが早い。さらに水は川から溢れて道路に流れるんです。だから、津波の押し寄せる背後からでなく、川から溢れたその水で前から攻められてしまったんです。逃げ道遮断されたような格好のところを、津波の勢いが弱かったこともあって走って逃げきれたんです。
たんすも衣類も水浸しになってしまいました。その時は、荷物を2階に持って上がってたら、汚れずに済んだろうにって思いましたね。
しかし今度は、そのチリ津波の記憶が悪くはたらいて、逃げない人が一杯出たんです。「どうせ2階にいれば良いんでねえか」とか思ったんですね。
「風の中、土に悠々と立つ──銀行マンの見た登米・志津川」須藤衛作さん(仮名)
[宮城県本吉郡南三陸町志津川]昭和7(1932)年生まれ
地震の揺れの後、「津波来るかな?」って海を見に行ったんです。そうしたら、かなり水の引きが速いものだから、「こりゃあ、いかん」と。上の娘のところに女の子の孫が2人いて、1人が気仙沼の高等学校へ通っているので、その孫が心配で軽トラックに乗って迎えに行こうとしました。
途中で津波が来て、山に潜り込んで、潜るって言うより、登ってだな、それで、なんとかかんとか高校まで行ったんだけれど、孫はもう帰った後でわからなくて・・。それで諦めて帰ってくるのに45号線は全く使えないから、知っている山道をグルっと回って戻って来ました。
後から聞いたら、気仙沼のジャスコに居たそうです。そこが危ないからと、私たちの子どもが通った旧宮城県鼎が浦(かなえがうら)高等学校(現在の気仙沼高等学校)で一晩過ごして、それから今度は気仙沼西高校へ行ったということです。怪我がなくて良かったです。
下の助産師の娘は、車で流されたそうです。自分の仕事場に向かっている途中で流されて、連絡の取りようがなくて、携帯電話も何も効かなかったですからね、半分あきらめていました。
そうしたら、私が避難した場所がたまたま発電機を起こしてテレビを点けたら、ウチの娘がテレビに写ったんですよ。瓦礫の中で助けを求めている姿でした。「ああ、これ助かったんだな」って、一応安心しました。
3日後に帰って来て、体が半分以上黒くなっていました。一晩海の中で瓦礫に揉まれたからね。体格が良かったから、今度ばかりは「お前スタイル云々じゃなくて、体格良くて良かったな」って、家族で笑い話にすることができました。
娘が低学年の頃は小学校にプールが無かったんです。だから、小さい頃はウチの前の川で泳ぎ、そうして海でも泳いで泳ぎを覚えました。高学年になって小学校にプールができたら、水泳大会で優勝したり記録を持っていたりしていたのが、今回幸いしたかなぁと思います。
家には婆さん(奥様)1人が残っていました。家の裏の山を崩れないように固めていたセメントの壁に、避難する時用に階段を作ってあったので、その階段を登って逃げたそうです。それで女房は助かりました。登って逃げて山の上から見ていたら自分の家がパーっと流されていくから、手でこう捕まえたくなったそうです。
上の娘は、もう1人の孫が専門学校の卒業式だったので、仙台に行っていました。その仙台からの帰りに地震と津波です。石巻から柳津(やないづ)の近くまで来て、そこで津波をかわすことができたんですが、もう少し早い時間に帰り始めていたら、途中で津波に呑まれていたんじゃないかと思います。タイミングが良かったと思います。おかげ様で、家族全員助かることができました。
息子さんのお話 私は津波の時は、隣のおばあちゃんを引っ張って逃げました。私の部落は孤立状態になってしまったんです。下の方は全滅です。自分の土地への建設は不可能だと言われています。具体的な話が、行政側がはっきりしていないから、説明会もやっていません。だから皆不安なんです。将来のことも考えられないし、宙ぶらりんなんです。この平成の森仮設は、大き過ぎます。知らない連中でまとまらないです。「住めば都」と言いますが、3カ月経ちますが、慣れないねぇ。狭いよねぇ。
昭和33年に高等学校を卒業して、仙台の大学病院へ臨床検査の勉強へ行きました。その頃はまだ専門学校とかではなくて、大学の研究室で、助手のようにして勉強しました。2年間です。18歳から20歳まで研修して、昭和35年志津川病院に就職しました。その年がチリ地震の年です。国家試験を受けて、資格を取って、帰って来たらチリ地震津波(地震発生から約22時間半後の5月24日未明に最大で6メートルの津波が三陸海岸沿岸を中心に襲来し宮城県志津川町(現南三陸町)では41名が亡くなった)にあったという感じです。
津波が来た時は、朝の5時頃だったので、まだ出勤前で伊里前の自宅にいました。自宅には被害はありませんでした。
親父が「病院が心配だから行ってみろ」と言うので、自転車で志津川へ向かいました。途中、橋が全部落ちてしまっていたので、そこは自転車を担いで歩いて川を渡りました。志津川に入るのに、まず裏山から高校へ行き、近くの同級生に頼んで自転車を置かせてもらいました。高校は高台にあるので、チリ地震津波の時は大丈夫だったんです。
それから病院へ向かいました。ところが、病院の近くまでたどり着いても病院へ渡れない・・。当時病院の周辺には製材所が4つあって、そこの材木が流れていたので、その材木の上をポンポンと越えて、なんとか病院の2階へ入りました。
志津川病院は、今は5階建てですが、当時は2階建ての木造の病院でした。病院自体は流されませんでした。水が残ってハゼとかカレイとかピシャピシャしていたのを覚えています。
前の日には、大小あわせて手術が7件あって、その中で、晩に手術した「えんどうさん」というお婆さんをおんぶして逃げました。屋根の上、潰れた屋根の上を渡って行くんだけれど、途中また波が来て、南三陸町の役場の手前にあった旅館の3階に駆け込んで、波をやり過ごして、そうやって中学までお婆さんをおんぶして行きました。
私も若かったんですね。あの津波の時は、幸いにして患者さんも職員も1人も亡くならずにすみました。今回のような仮設住宅というのはなくて、志津川中学校の体育館が避難所になりました。波が引いたら、みんな自分の土地に戻って家を建てました。
あのチリ津波の教訓を、もう少し真剣に受け止めていたら・・と思います。岩手県の田老町(たろうちょう)というところを知っていますか? あそこも、古い時代(明治29年三陸津波、昭和8年三陸津波)から、津波で大きな被害を受けるというのを繰り返していた場所で、それを教訓に「波返し」というのを造りました。
それで「あそこはもう完璧だ」という評判で、私たちも視察に行きました。それを基盤にして志津川や伊里前も造ったんです。基盤があって、それを元にそれぞれ対策はしていたんだけれど、今回の津波では何も役に立たなかったということです。千年に一度の津波というものの凄さです。
私たちは、三陸沖地震とチリ地震津波と、今度の大震災と、3回も経験しました。しかも、戦争で、いっぱい苦労して育ってね。生きているうちにそういう経験はしたくなかったねぇ(笑)。もっと良いことを経験するならいいけどもさ。
私たち、地震のあった時はね、爺ちゃんがテレビを観て、「こんだ(今度は)、大変だー!!」「地震だから、婆ちゃん、出払え〜!!」って叫んでね。
外へ逃げたから、爺ちゃんは1人、私とお母さん(お嫁さん)は一緒、お父さん(息子さん)は1人で、3台で逃げました。センター(細浦地区で避難所に指定されていた細浦生活センター)さ、避難しないとね。
センターさ行ったら、「ここじゃ危ないから高台へ行け」って言われて、お寺さ行って、そしたらお寺もダメだから、ご先祖様のお墓の上で寝たのよ。今度の津波は、潮があんまり引けなかったね。そうして波が来たから、相当高いのね。みんな流されたから、こないだったらウチも流されるなぁって覚悟しました。
今後の課題は「集団高台移転」ですね。
誰しも今まで自分が住んでたところに戻りたいと思うもので、津波の危険があってやむを得ず移転しなければならないのであれば、できるだけ自分が住んでた場所に近い高台を望むわけです。名足地区は都市計画の中に入っていて、津波が到達したところには家屋の建築許可は下りません。
1メートル近く地盤沈下しているので、水が来るところにも建てられません。今の国の制度では5人以上で集団移転するのであれば、土地も確保しますと言っていますが、売地か賃貸かもハッキリとしていないんです。第三次補正(予算)でその辺りは出てくると思いますが、まだ決定はしてない。建築許可の下りない土地を国が買い上げるのかどうか、その辺もまだはっきりしない。そういう点が問題です。
国のシステムというのはわかりにくい。今、大震災の復興担当大臣がいますが、すべての復興に関して一元的にやってくれるんなら一番いいんだけど、今までと何も代わらないのです。財源は財務省、この修繕には農林水産省とか、窓口が違うわけ。何のための復興大臣か復興か、と言いたくなりますね。われわれにとっては、陳情する先が1か所増えるだけなのです。復興庁は、我々がよその官庁へ行かなくてもいいように調整しなきゃいけない、それが復興担当大臣なんだから。
ところがほら、官僚の既得権というのがすごい。「次生まれて来るなら官僚だな」と冗談でも言いたくなりますね。法律の元はみな官僚が作るのです。(※)法整備というものは、官僚たちが今後自分たちにとって心配のない政界にするための法整備なのです。だから、国会議員がしっかり勉強しなければならず、官僚に使われるようではダメだと思います。
私いろいろと商売もやってきましたが、法律がいろいろ改正になった十何年前から、労働時間の上限週40時間についてなど、よく監督省庁側と衝突したものです。この法律では、公務員は給料が下がるわけがないけれど、時給で働く人の労働時間が少なくなって収入が下がるわけだから、民間は対象外にしてくれと言ったのです。法の整備で利益を受けられる事業なんてのは、一部の上場会社とか、そういう優良会社しかできないんです。民間の中小企業とか零細企業なんかはやっていけない。残業手当の出ない会社もあるんですよ。そういうところはサービス残業です。みなさんのイメージで公務員よりいいようにみるかも知んないけどね。
津波は、今度で4回目です。明治29(1896)年と昭和8(1933)年にも津波があったんです。それから、チリ(地震)津波、昭和35(1960)年です。
昭和8(1933)年の津波の時は、私は8歳になったところでした。昭和に入って、学校へ行くのに、津波が3月だったから、5月から学校でした。その時もやっぱり雪が降ってね、その時のことも覚えているけれど、やっぱり高台へ行ってね。今度のようなことは、千年に1回だからね、まさかこんなことになるとは誰も考えてなかったからね。