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子供の頃はやっぱりおはぎとかああいうのが好きでしたねぇ。子供の頃からよく食べてました。
ごちそうたって今のような食材なんかもないし、今はカレールーを売ってるけど、昔はカレーなんかもカレー粉を小麦粉で溶いた真っ黄色なカレーで、肉なんかも買えなかったし売ってなかったから、肉の代わりにソーセージを入れたり、ちくわを入れたようなカレーでした。カレーは子供のころからありましたよ。
おやつなんてのはないから、木の実を捕って食べたりしてました。木に登ったり拾ったりして。秋になるといろいろ木の実が出るんです。アケビやグミ、あと柿とか。おやつ調達が遊びだったんです。
毎年冬になると、野ウサギ、ここでは山ウサギというんだけれど、それを罠を仕掛けてとって食べたりしました。
罠は針金の細いものを輪っかにするんですね。それをウサギの通り道に置き、ウサギがそこを通ると首がひっかかりギューとなってとれる。前の日に仕掛けて、次の日に見に行く。それは良くとれましたよ。ウサギは自分でも皮を剥いで、肉の状態に捌いて、家の人に渡して料理に使ってもらいました。料理はやっぱり鍋料理で、トン汁のような感じのウサギ汁。ウサギはちょっと独特の臭みがありますね。毛色は灰色っぽい色で冬になると雪にウサギの足跡があるんですよ。前が2個で後ろが点々となっていて、ウサギの通り道が分かるので、そこに罠を仕掛けて。とれる、とれないの波もあって、毎回捕れるんじゃないんだけれど、ウサギは食糧でした。
うちの親父もそうだったけれど、狩猟免許を持っている人が結構いたので、キジとかヤマドリとかウサギも含めて捕ってきましたね。キジは今でも見られますよ。ほら、これだよ、これがヤマドリ(居間に、はく製にして2羽飾ってあった)。ヤマドリの雄ですよ。雌はしっぽが短くて鶏のチャボみたいなんです。このはく製は、町の人に頼んで作ってもらったもんです。
家では子供の頃から冬になると高級料理のキジ鍋を毎日食べてましたよ。キジの雌は(子孫を増やすから)捕ってはだめなんです。雄はいいですけど。狩猟シーズンは11月から2月頃まででした。
木の実の季節の秋になると、子供たちも多かった当時は、学校から帰るとみんなで山に行って、栗を拾ってきたり、柿を取ったり、あけびを採ったりしました。暗くなるまでおやつ代わりにして食べながら遊びました。柿は渋柿と甘柿があって、渋柿は取っても仕方ないが甘柿はねらい目をつけて、家の人がいない民家の柿の木に登って捕りました。柿の木って折れやすいんですよ。だから登るのには結構注意して登りました。きのこは子供でも知ってるきのこを採りました。年中、山に入っていましたね。山菜も採りました。
子どもの頃のおやつといえば、豆もちもうまかった。いっちゃん、かんちゃんと3人でかくれんぼして、かんちゃんがオニになっちゃって、「まーだだよ」って言っている間に、ふたりで「食ってしまおう!」って・・。食べてるところを見つかって、「お前ら何やってんだー!!」ってね(笑)。
豆もちとか、すみもちとか、草もちとか、きな粉を絡めたものを、ばあちゃんが出してくれたりしました。また、同級生のおばあちゃんが、畑で作ってくれた瓜を冷やして食べさせてくれたのを覚えています。だから、本当におやつと言えば手作りのものでした。芋を茹でたものとか、遊びに行った家のおばさんが子どもたちに出してくれているのが、3時のおやつだった時代です。
それから、柿をくすねたりも・・「あそこの柿は甘いから食べよう!」ってかんちゃんが言うので食べてみたら渋柿で、「ウワ~!!」って口から出したり(笑)。そのあと、その渋だらけの口をどうしたかって言うと、今度は人様の家の大根をくすねて食べたり・・。そういうことを大人は黙って許してくれた時代でした。いっちゃん、かんちゃんとは、本当に3人でよく遊びました。
子どもの頃の楽しみといえば、やっぱり食べることなんですね。お腹がいつも空いていましたからね。山へ行って、くわご(桑の実の方言)とか、後は、茱萸(ぐみ)を採って食べるのが楽しみでした。
自然の恵みが多いとかそういうことではなくて、子どもの人数が多くて、皆が採るから競争みたいなもんですよ。当時は1クラスが40~50人。3組あって1学年150人くらいでした。
海にも、行きましたよ。潜って、タコを獲ったり・・。
そういうふうに遊んでいると、お腹が空いたり、喉が乾いたりするから、途中の畑に入って大根があれば、ちょっと無断で大根を頂いて食べたりしました。大根はね、土から顔を出している青い部分が甘いんだよ。お天道さまが当たっているところが青くなるでしょう? そこが甘いんです。で、そこを食べると美味しいの。下は辛いから・・。そういう時、犯罪意識とかそんな大げさなことは考えませんでしたね。今とは感覚が違いますね。とにかく、背に腹は代えられないと・・。
品種改良が進んでいないから、野菜なんかも今とは違います。美味しいというのが少し違うと思います。この辺は、梨とかリンゴもあまり無かったね。今は、ドンドン品種改良が進んで、種なしブドウとか出ていますけれど、当時喜んで食べていた物って、今ではあんまり売れないんじゃないかな?
柿は、当時からありました。甘柿と渋柿とありますね? 甘柿というのは、まだ木になっている青いうちから甘いんですよ。だから、そういうのは見逃しません(笑)。1つ無くなり、2つ無くなりしてね・・。その柿の木のある家の人たちの口には、ほとんど入らなかったと思いますよ。
「お正月は、お餅!」って思うだろうけど、お米がある人たちばかりじゃないから、もち米ばっかりじゃなくて、色々なものを混ぜて、豆を入れて豆餅とか、よもぎを混ぜて草餅とか。今は、わざわざそういう物を入れたほうが美味しいなんて言うけどさ。
で、もち米にうるち米(普段食べているご飯のお米)も混ぜるから、粘りのない餅になるんです。焼いても、食べると「ぼっきらぼっきら」って。ウチの弟は、「うる米餅はいらない」なんて言いました。ウチの弟だけじゃないけどね。
戦争中は物が無かったから、私の家は農家だから、できたものは皆で分けっこして、買って食べようと思ったことはありません。自分で採った物を少しずつ皆で食べました。分けてね。果物はその時分は、山で木の桃を採ってきたり、いろいろなを植えたりしました。当時は、「何々を食べたい」とかは、思いませんでした。
お母さんは、一生懸命お努めして、子どもたちに食べさせてくれました。干し柿は、そのままでは食べられない渋柿を食べる調理法の工夫だね。皮をむいて干すでしょう? 干して、粉が上がったら、裂いて大根おろしにしたり、さつまいもだって干して干し芋を作ったり、生の柿を潰して粉を入れてかき餅にして食べました。
米を炒って香煎みたいにして食べたこともあります。蕎麦粉に味噌と出汁を入れて、鰹節なんかも入れて練って囲炉裏で丸く焼くんです。家で採った蕎麦だから美味しいの。朝早く起きて、おやつになるように作って、あれも美味しかった。
なんでもやりました。今、買って食べるのは昔のと味が違うね。自分たちで採って、自分たちで手作りです。
後は、サトウキビ、沖縄で売ってるね? ああいうのも、私たちも作りました。あの時分は砂糖もないから、切って煮出してザルにあげて、その汁を煮詰めるんです。1キログラムの水を200グラムくらいまで煮詰めるんです。そうすると甘味がウンと出てくるの。そういうので、お正月にお餅を食べたりしました。皆で少しずつ分けてね。買って食べるということがないからね。
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