文字サイズ |
昭和17(1942)年ごろ東京を引き払い、こちらに戻ってきました。
1年間漁業協同組合に行って、そして小学校国民学校の今でいえば、代用教員の「助教(じょきょう)」に任命されて、月俸28円を頂くことになりました。
教員生活は、戦時中の昭和18(1943)年4月1日、地元伊里前の国民学校から始まりました。昭和31(1956)年まで勤めたんですから。13年間いました。それから同じ町内の、家内の出身学校の名足小学校、そこに11年いて、昭和42(1967)年に、去年廃校になった荒砥小学校に赴任し、そこに4年間いて、最後は志津川小学校に8年間いまして、昭和54(1979)年の3月に辞めました。
教職時代で一番嬉しかったのは、代用教員の「助教」から正規の「教諭」になったことでしたね。それまで数年かかりました。また、その後昭和34(1959)年ごろ「小学校教諭一級普通免許状」というのを貰いました。短大を出ても2級免許状しかもらえないのです。もちろん、長い期間かけて、大学の講座とか公開講座とか、あるいは宮城県教育委員会主催する講座とか受けて、単位を取ったのです。その時の2つは嬉しかったですね。
Please use the navigation to move within this section.
© 2012 東日本大震災 RQ聞き書きプロジェクト 「自分史」公開サイト. All Rights Reserved.