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津波のときは、伊里前から隣町の志津川に買い物にいくつもりで、歌津駅の待合室におりました。志津川は電車賃で200円の区間です。家内が3年間くらい寝たり起きたりしていた頃に、僕が炊事をしましたから、自分で調理ができるんです。なので、買い物のために志津川町まで行くのに、14時43分の気仙沼ゆきの列車に乗ろうと思って待っていました。すると「列車が始発から、点検のため15分遅れになっている」という案内があって、そのときあの地震がありました。
で、僕はチリ地震津波(1960年)、昭和8年津波(1933年)の体験がありますから、ホームというものは石を積んであって、プラットホームあって、屋根あって、高いもんですから、待合室からそこへ逃げようと思ったんです。そしたら女の駅員さんが2人来て、「山内さん、危ないから、ホームさ行ったらダメだ」って。僕は1週間に1回、多い時は2回くらい駅に来ていて、回数券を買うから、名前ぐらいわかるんですね。リュックサックを背負ったまま、両腕を女の駅員2人に挟まれて、屋外に出されてね、「早く外さ避難しなさい」と。そのうちにまたも震度7の大物の揺れが来て、電信柱がいかにも倒れそうになり、遠くで雷みたいな音が鳴っていました。この87歳が、もうタイルと舗装の上、地べたに這おうと思うくらいにすごかったんです。
そうして、みんな車を避難させる目的で、運転手ひとりの車が、数十台列をなして、次々に志津川高等学校の高台目指していくわけです。その中で、1台止めて乗せてもらおうと思うんだけど、車間距離が接近してるから、急に停めたら衝突してしまいそうでした。運転している人の中に知ってる人もちろんいないから、停められないでいたんです。そしたらね、お隣の人が「山内さん、早く乗らい(乗りなさい)」って。
お隣の菅原整骨院のお姉ちゃんが、自分の軽乗用車を避難させようと思って、自分だけ乗ってたの。隙をねらって乗せてもらいました。志津川高校まで歩いたらやっぱり4〜5百メートルの距離があったから、荷物を捨てたとしても、心臓も弱っていますし、体が持たなかったと思いますね。幸運にも乗っけてもらって、高台の志津川高校の屋内体育館に避難することができました。
津波が到達するまでは時間少しあったから、その高台から南の方向をみんなが見てるので行ってみると、津波が押し寄せてくるのが見えました。川を上る波が溢れて、こっちの方の道路とか、田んぼの方に流れて来ていました。もし列車がちゃんと来ていたら、少々の遅れくらいで発車していても、途中で脱線したりひっくり返ったりで、僕はおそらく死んでたでしょうね。
私は、満州引き揚げの前に日本へ戻り、そして東京大空襲の前に東京から田舎に引き上げてきていましたし、強運だと思いますね。
だから、大津波で死ななくて、肺炎なんかで死んではだめだと自分でも思ってるんです。
昭和8(1933)年と、昭和35(1960)年のチリ津波と、今度の津波は3回目。昭和8年の津波でも、私は家も小屋もみんな流されたんだ。やっぱり今度のように雪が降ってね。
津波の前には志津川(南三陸町)に住んでいました。今回の津波のとき、息子は船に乗っていたんだって。地震が起きてすぐは息子も一緒で、今家が1軒残ってる、山の方の隅っこのほうに車を2台とも運んで避難しました。もう時間が無くて、たくさん蓄えておいた食糧も少ししか持っていけないまま、車に積み込んだの。まさかそこまで津波が来るなんて思いも寄らなかったよ。車を置いてから、息子は船を見にいくって行ってしまいました。長女も一緒に逃げて来てたけど、私には分からなかったけど、そのとき伊里前(いさとまえ)(南三陸町歌津)のほうから波がこっちに来てたの。そこから車で波に追いかけられるようにして逃げたよ。
途中で娘に「そこの農協のところでいいんじゃないか」って言ったんだけど、娘は「ダメだ、ダメだ」って言って、もっと高いところに逃げたの。船を持っている人の土地があってそこが平らになってたから、そこに車を入れさせてもらって。後ろを振り返ったら、田の浦(南三陸町歌津)の方から来る波と、伊里前の魚竜館のほうから来る波がぶつかって、まるでもう噴水! たった今通ってきた農協のところも、清水浜は一気に、すべてが流されてしまった。もう、すごい、すごい! 一緒に見ていた人のなかに「私(おらい)の家が流される!」って言っている人もいました。
一度波が引いたときに、うちの孫が波の様子を見てたら、誰かが走ってきて、周りをぜんぜん見ないで自分の車の方に行くので、「そっちに行ってはダメだから、いいから、行きましょう」って言って引っ張ったんです。危なかったんですよ。車はようやくそのへんに引っかかっていて、そこから通帳がぶら下がっていたのを取ろうとして落ちかかっていたんだね。孫が「助けて、助けて」と叫んだので、それを聞いた娘がそこに行ってその人を引っ張り上げたんだ。
自分の住んでいたところでは130戸も家が流されて45人もの人が亡くなったの。だから、流されてしまった部落のところを通ると情けなくて涙が流れに流れてしまうよ。この仮設住宅の上のほうに1カ月いて、鳴子温泉に行っていくらか体を休めてに1カ月行って来たの。そのときも息子は働かなくちゃならなくて。「漁協の方で今働かねぇと、クビになってどこさも行くところが無くなる」って言って、鳴子から志津川の瓦礫の中へ通っていたよ。2日ぐらい、志津川のどこかの家に泊まって、また鳴子に行って、行ったり来たり大変だったねえ。
昭和8年の津波のときは、小学校の1年か2年だったかな。現在の歌津中のすぐ下あたりに住んでいたんだけど、3月3日の夜でした。揺れが長くて、5分ぐらい続きました。もう収まったから寝ようと思った時に、隣のおじいさんが「津波だ~!」って声を出したものだから、一目散に下の伊里前小学校のほうに逃げだしたんです。その津波では、歌津全体ではで4~500人の方が亡くなったんです。だけどこの伊里前ってとこはひとりも死んだ人がいないのね、1軒は船が突っ込んだけども。というのは、うちの前がちょうど道路で、水がちょこっと乗っただけで済んだほどで、伊里前では水がほとんど上がらなかったからなのです。
今度の津波のときも、昭和8(1933)年のとき助かったように、柳沢の奥のほうに逃げて行けばいいと思って、手押し車持って行ったのよ。それで足も冷たいし、中に入り込んだの。
その時孫が、金曜日で、遊びさ行ってきたばかりでね、そんで地震があったから、今までの地震と違うと、地震にたまげて、訳分かんなくなって(動揺して)しまったのよ。
それで、「早く、車さ乗れ、車さ乗れ」って。そうして今語るわけさ。車こうしてあるから。あれさえあれば、どこさ行ってもいい。たたんでね、それさ積もうと思ったの。そうしたら孫が怒ってね。ラジオできょうの津波のことを詳しく言ってるんでないか、と思ったのね。そして、実家さ行ったのさ。
そこまで行けば大丈夫だと私も思ってだんけど、そこも、みんな逃げてしまって、いなくなって、うちのおばちゃん一人なの。おばちゃんも車に乗るなり、「早く! 早く行け!」って言うんだっちゃ。だから孫の言う事聞いて車に乗って、田束山(たつがねさん)ていう小泉の一番高い山の中盤の、遊び場があって、そして、トイレがあるとこ行くっていうのさ。そこなら安心だからって。そこへ連れていかれたの。だから津波は見なかったわけ。
私たちと孫はね。「とにかく早く乗れ」ってことで、そこへは、一番先に着いたんだよ。あとからどんどん他の車が来て、夕方には駐車場がいっぱいになったの。それで、そのあとは、高いところにあるから、小泉中学校の体育館に行ってきた。雪っこも降ってきた。
二十一浜の人の話、聞いたんだけど、そこは真ん中に川があって、両側は山で、川の両側に家建ってんのよ。だから逃げるっつたら、山さ上がって行くのね。山さ上がって津波の来るのを見てたんだって。見てた人、一杯いたんだって。その人たちから話を聞いただけで、私は何も見なかったの。そしたら、小泉の町が流れた、さっき通った実家も流れたっていうんだもの。ほんとに驚いた。そうしたら、陸前高田も流れた。志津川も流れたっていうからねぇ、夢にも思っていない。
こんな津波が千年前に来たんだって、そんなこと、だれも昔話だって思うね。明治の津波のことは聞いてたけども、そんな千年も昔なんて、そんなの、もう誰も聞いてないし、誰も知らない。語りおく(語り継ぐ)も何も無かったからね。それまで、こんな津波が来ると思ってなかったんだよね。そしたら、みんな無くなってね。でも、昼間だからまだ良かったんだよね。波が来たのが夜だったら、まだ亡くなった人もいっぱいいたでしょうね。
今、津波はこんな目にあうと思わなかった。夢にも思わなかったね。
ここではね、明治29(1897)年にも、津波があったんです(明治29年津波)。みんな家を海の近くに建てたんだって。海さ行くのに便利だからね。堤防も何もなくて、ポンと行けば、磯まですぐ出られるところなの。言い換えると、すぐに砂原のところで、波が来るとこなんですよ。
昭和8(1933)年の津波とき、私は数えの10歳で、そのことをしっかり覚えてんです。そんとき、堤防がなくて、沿岸に住んでいた人はみんな流されたの。そのとき私が住んでた柳沢の家は、ずーっと奥の方に建ってたの。だから、津波が来ても流されなかったんです。そのあと、農閑期の人が土方やって堤防を拵(こしら)えてたんです。
昭和8(1933)年に流されたところに、その後も住んだ人もいます。戸数はそんなに多くなかったけれども、戸数のわりには住んだ人が大勢いたのよ。
実家は農業。ああ。おめぇたちに言ってもわかんねぇなあ。その頃は機械も何もないから、田を起こすのにも、荷物を積むのにも、馬を使ったのさぁ。農家はどこにも馬がいたの。お父さんは、その馬の、荷物を積む荷鞍の、その中に入れる「タバサミ」(鞍薦(くらこも)というが、この地方では「タバサミ」とも呼んでいた)っていうのを作ってたの。ガバでね。ガバっていうのはね、因幡の白うさぎのガバだよ、♪ガーバにく~るまれ♪って、あの。穂が綿にくるまれとって、綿(わた)みたいになるの。ガバっていうけど、ガマだね。なんとなくわかる? それでね、自分で荷鞍を作って、それを売ってたの。
うちのお父さんは荷鞍のタバサミを作ってお金を取って(現金を稼いで)たけど、その頃、お金取り(労働力を提供して賃金をもらうこと)っていうのはそんなに無かったの。それが、昭和8(1933)年、二十一浜にね、津波が来たんです。そのあと、堤防を拵(こしら)えんのが土方で、それやって金取りが始まったんだって、聞いてたのさ。私はそんときは子どもだから、そんな「金取り」の意味なんか考えなかった。うちのお父さんは、農家やって、農家の仕事が終わったらば、荷鞍のタバサミを拵えに行商に出っから、土方はやんないの。農閑期に何もしない人は、二十一浜の堤防の土方に金取りに行ったね。
農家はね、毎年、荷鞍を左右とも、両方、新調するの。毎年のことだから、農家の家々では、タバサミの材料のガマを刈って、乾かしておいたのを置いておくの。
冬に農作業をしなくなると、お父さんは登米だの横山だのに出て、ずうっと家を空けて出稼ぎです。毎年(まいねん)毎年(まいねん)、ずっと、タバサミを作り作り、一軒ずつ行くんだ。お金もらって、そのお金でどこかに泊まりながら行商するんです。出稼ぎは、柳沢から始まって、大盤峠を越えて、横山(登米市)まで行ったんですよ。自動車が通んない前、昔だからね。雪も降ったそうです。横山にたどり着く頃には、お正月、昔は旧のお正月だから2月になるんですよ。
昭和35(1961)年のチリ地震津波のときは、家にいなかったんで、経験していないんです。その時は用事があって、おっかあの実家の岩手の東山に行ってたんですね。家は大丈夫でしたよ。海面から家までの間が高さ3メートルぐらいあったからね、すれすれまで津波は来たけど、大丈夫だったんです。
明治29年の津波の話はおっぺさんに聞いてました。その頃は、護岸工事なんか全くしてなかったから、みんな海岸に家を建てていたんですね。だから津波で歌津村では800人くらいは亡くなったようですね。家も270か280戸くらいが流出したんです。おっぺさんはそのころ若かったから、海岸の桑畑があったんだけど、そこの桑の木の、太い幹の上の方に登って助かったって話もききましたね。
昭和8(1933)年の津波の時は、明治の津波の事をみんな聞いてたもんだから、家の前に石垣をずうっと造ったものでした。伊里前地区は石垣をみんな高さ3メートルくらい作っていましたからね。だから、あんまり被害がなかったらしいんです。伊里前は亡くなった人がただ一人だって聞いてますね。ただ、歌津町の外れの、浜の方の、工事しないで石垣も何も無いところの家が60何軒、流出したという事もきいています。
チリ地震の津波のあと、その石垣をコンクリで固めて、さらに3メートルくらい高くした、その防波堤が今回の津波でみな取れてしまって何もないんです。
明治29年の津波のあと、みんな高いところにいったんだけどね、家の実家があったところは、大体海岸から25メートルぐらい上がったとこなんだけどね、それでもそのへんまで波が来たんですよ。今度の津波で。だから25メートルくらいの高さがあったんですね。
やっぱり年寄りから津波のことは昔からいろいろ聞いてました。直接おっぺさんからも「津波あったら、高いところ、早く逃げろ」ってね。今度の津波でもね、船がもったいないからって、いったん逃げたんだけど、また、ロープを持って、船を縛りに戻って、2人でもって流された人が近くにいました。
昭和8(1933)年3月3日、地震の日はまだ寒くて、雪が降っていたの。津波の上がったところだけは黒くなって、上がんないところは白い雪が残ってね。
津波が来たときは、私はまだ小学校に上がる前で、夜、お爺さんと一緒に寝てたけっども、お爺さんが私をおぶって逃げてたんだね。お爺さんは60歳ぐらいだったね。
家は流されねえの。下まで波が来たけど、流れねえの。だけっど、お爺さんが海岸で店ッコやってたの。雑貨屋。津波の前の日には、新しい店ッコの「建前(タテメエ)(新築の際に行われる神道の祭祀、いわゆる「上棟式」のこと。詳しくは後述)」までしたが、津波に流されてしまった。
小学校は8年通いました。昭和8(1933)年、津波の年に小学校に入ったの。子どもの頃は、いつでも「陣取り」したの。
「陣取り」ってわかる? 隣の家と隣の家で、じゃんけんして、隣の家さ、相手よりも早く「陣取って」攻めていくんです。「陣取る」っつうのは、柱でもなんでも良いから、とんとんって跳ねて行ってね、相手よりも早く行って、端にすがりついた人が勝ち。
あとは、野球。野(の)野球(草野球)だけどね。今のような活発な服装でやったんでねえげっと。私は、ピッチャーでなくキャッチャーのほうでした。
昭和33年に高等学校を卒業して、仙台の大学病院へ臨床検査の勉強へ行きました。その頃はまだ専門学校とかではなくて、大学の研究室で、助手のようにして勉強しました。2年間です。18歳から20歳まで研修して、昭和35年志津川病院に就職しました。その年がチリ地震の年です。国家試験を受けて、資格を取って、帰って来たらチリ地震津波(地震発生から約22時間半後の5月24日未明に最大で6メートルの津波が三陸海岸沿岸を中心に襲来し宮城県志津川町(現南三陸町)では41名が亡くなった)にあったという感じです。
津波が来た時は、朝の5時頃だったので、まだ出勤前で伊里前の自宅にいました。自宅には被害はありませんでした。
親父が「病院が心配だから行ってみろ」と言うので、自転車で志津川へ向かいました。途中、橋が全部落ちてしまっていたので、そこは自転車を担いで歩いて川を渡りました。志津川に入るのに、まず裏山から高校へ行き、近くの同級生に頼んで自転車を置かせてもらいました。高校は高台にあるので、チリ地震津波の時は大丈夫だったんです。
それから病院へ向かいました。ところが、病院の近くまでたどり着いても病院へ渡れない・・。当時病院の周辺には製材所が4つあって、そこの材木が流れていたので、その材木の上をポンポンと越えて、なんとか病院の2階へ入りました。
志津川病院は、今は5階建てですが、当時は2階建ての木造の病院でした。病院自体は流されませんでした。水が残ってハゼとかカレイとかピシャピシャしていたのを覚えています。
前の日には、大小あわせて手術が7件あって、その中で、晩に手術した「えんどうさん」というお婆さんをおんぶして逃げました。屋根の上、潰れた屋根の上を渡って行くんだけれど、途中また波が来て、南三陸町の役場の手前にあった旅館の3階に駆け込んで、波をやり過ごして、そうやって中学までお婆さんをおんぶして行きました。
私も若かったんですね。あの津波の時は、幸いにして患者さんも職員も1人も亡くならずにすみました。今回のような仮設住宅というのはなくて、志津川中学校の体育館が避難所になりました。波が引いたら、みんな自分の土地に戻って家を建てました。
あのチリ津波の教訓を、もう少し真剣に受け止めていたら・・と思います。岩手県の田老町(たろうちょう)というところを知っていますか? あそこも、古い時代(明治29年三陸津波、昭和8年三陸津波)から、津波で大きな被害を受けるというのを繰り返していた場所で、それを教訓に「波返し」というのを造りました。
それで「あそこはもう完璧だ」という評判で、私たちも視察に行きました。それを基盤にして志津川や伊里前も造ったんです。基盤があって、それを元にそれぞれ対策はしていたんだけれど、今回の津波では何も役に立たなかったということです。千年に一度の津波というものの凄さです。
私たちは、三陸沖地震とチリ地震津波と、今度の大震災と、3回も経験しました。しかも、戦争で、いっぱい苦労して育ってね。生きているうちにそういう経験はしたくなかったねぇ(笑)。もっと良いことを経験するならいいけどもさ。
津波は、今度で4回目です。明治29(1896)年と昭和8(1933)年にも津波があったんです。それから、チリ(地震)津波、昭和35(1960)年です。
昭和8(1933)年の津波の時は、私は8歳になったところでした。昭和に入って、学校へ行くのに、津波が3月だったから、5月から学校でした。その時もやっぱり雪が降ってね、その時のことも覚えているけれど、やっぱり高台へ行ってね。今度のようなことは、千年に1回だからね、まさかこんなことになるとは誰も考えてなかったからね。
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