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私のいた中隊は、ビルマへの移動中、ランソン、タピオ、ウォンビツに達したところで敗戦を知りました。前線にいたので、情報が伝わるのが遅く、8月15日に敗戦を知ることは出来ず、翌日に暗号でやっと伝わったような状況でした。
日本はきっと勝つんだ、負けるはずがないと信じて戦ってきた私たちは敗戦を知って泣き崩れました。捕虜になることは大変な恥辱と教えられていたので「自決するか」と言って泣いている人もいました。みな自決は覚悟していたと思いますが、連隊長は「もう少し待て」と思いとどまるよう言ってくれました。それでもある准尉は一平卒から昇進した生え抜きの軍人で「孫の顔をもう一度見たかった」と言って自決してしまいました。
行軍中には、中隊長以下、天皇陛下のご命令があれば全員、自決する覚悟はできていました。先に、手りゅう弾で自決した人もいました。手りゅう弾を自分だけのために使って死んでしまったので、骨もなにも故郷の日本に持ち帰ることはできませんでした。
そのうち、隊の火薬庫に敵の砲弾が命中して、武器を失った私たちは蜘蛛の子を散らすように逃げましたが捕まって捕虜になってしまったのです。
その後、私たちは中国の捕虜として収容所に入ることになりました。銃などに入った菊の御紋はすべて削りとらされました。しかし、幸運なことに、そこを管理していた中国人は40歳そこそこの若い少将でしたが日本の学校を出ていた人で、日本人捕虜の扱いが比較的良かったのです。それでも朝起きてすることは農作業で、食べるものといったら皆雑炊です。サツマイモのつるを食べるほど食料が不足していました。鉄の御椀に竹の箸で食べたことを思い出します。戦争後、2~3年そこに止められて、やっとのことで日本に戻れる日が来ました。来た時と同じように漁船に乗り、ハノイから浦賀にあがり、米川に戻ってきたのです。昭和22年のことでした。
仏印国境でフランス軍の捕虜を軍刀で切り殺した罪で、自分のいた隊の大隊長が戦犯として絞首刑になりました。実際は部下の兵がやったことだったのですが、捕虜を殺してしまった責任を取る形で刑を受けたのです。
戦争中は、人の気持ちが荒んでいました。上官に何の理由もなく、虫の居所が悪いとほっぺたを左右叩かれることもありました。私の中隊ではありませんでしたが、他の中隊であまりにひどいいじめをしていた上官が少年兵から「後ろ玉(実践中に敵を撃つふりをして後ろから上官を撃ってしまうこと)」で殺されてしまうという事件も起きたそうです。また、これは終戦後になりますが、引き上げ船の中で、軍が解体して軍の序列がなくなったことで、上官だった人が部下だった人に仕返しを受けて重傷を負うということも起きました。
私たちは天皇の軍隊として徴集され、戦場に送られましたが、戦場で命を落とす人は誰ひとり「天皇陛下バンザイ」などは言いませんでした。15や16で戦争に駆り出された少年兵はみなおふくろの名前を、子どもがいる人は自分が育てた子の名前を叫んで死んだのです。こんなに残酷な戦争は絶対にするものではありません。(談)
春になると「日本に帰るから広場に集まれ」と言われてまたみんな集合しました。
みんな骨と皮ばかりに痩せこけて、途中で脱落していった方々もありました。旦那さんを亡くして、好き好んでではなく、生きるためにやむを得ず満州人と結婚した女性たちもいました。その方たちがどうなったかはわかりません。
そして再び貨車に乗せられ、南へ南へと走りました。今度は朝鮮寄りの葫蘆島(ころとう)というところに着きました。そこから船に乗せられるときは「ああ、やっと日本に帰るんだな、今度こそ日本に帰るんだな」と本当に嬉しかった。
その船は「宵月(よいづき)」という駆逐艦で、造船して一度も戦争に使われないまま終戦になってしまったという船だったと、乗組員の方に聞きました。もとが駆逐艦ですから、42ノットくらいのスピードが出て、客船を追い越して気持ち良い速さで波を蹴っていくのです。そして船は舞鶴に立ち寄りながら、2日かけて博多までやってきました。
ラジオの前に、私たちきょうだいみんなここに正座して、天皇陛下の玉音放送を聞いたのは小学校5年生の8月15日のことでした。「ああ、日本は負けた、負けたー」って、子ども心にも悔しく、泣いた覚えがあります。
父は終戦の1年前に綏化より北の町にまた転勤になっていました。終戦の直前に、部下に届いた召集令状を渡しに哈爾濱(ハルピン)に行って勤務地に帰る途中、通過するはずの綏化の駅で、かなりのスピードを出して走っていた汽車から飛び降り、石炭の上に落ちたのでけがもせず、社宅に戻ってきました。なんとその翌日から満鉄の列車は動かなくなってしまったのです。虫の知らせというか、父に言わせると「なんだか急に無性に家に帰りたくなった」と言っていました。そのまま家に帰らずにいたら、生きては戻ってこられなかったでしょう。そのときのことは、父が後日客人に話しているのを聞いてあとで知ったのです。父はそれきりこちらが聞いても何も話しませんでした。記録も残してほしかったのですが、何も残してはいません。
当時家には、両親と、長男の私、9歳の恵子、6歳の京子、4歳の哲男、3歳のサチ子、そして乳飲み子の勝子と5人の子どもがいましたので、父がもし帰ってこなくて男手のない家庭になっていたら、この後、満州から逃げる1年の間に、みんな野垂れ死にしていたと思うんです。実際に男手のいない家庭は逃げきれないで死んでいったのです。
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