文字サイズ |
戦争が終わってからは、とにかく食わなければならない。物価は上がる、金はあっても物は無いと言う時代だったので、私のような給料取りは大変でした。船に乗ってもらえる金は、じゃんじゃん値が上がりました。私が100円給料のとき、船乗りは一晩で1000円くらい取ってくるとか・・。私が月に3000円のとき、サンマ漁に1回行って3万円です。北洋とかソ連の鮭を獲る船だと、1軒の家から3人が1回行くだけで家が建ったような時代です。それくらい取れる。バカでもかまわない。とにかく船さえ乗れば、一人前。みんな中学終われば直ぐ船に行きました。義務教育なんて、勉強なんてどうでも良いという、そういう時代です。今大体50代から60代の人は、中学を終わったら海へ行って船に乗りました。その頃は船も多かった。船に乗れば、戸倉小浜みたいに立派な家が建った時代です。
歌津には、役場と農協と漁業会とか、官公庁の勤め口はそれくらいしかなかった。銀行は戦後しばらくしてからです。だから、皆、海へ行くか、会社や工場のある東京や仙台へ行くか・・そんな風でした。
「縦の糸はあなた、横の糸は私──夫婦の自分史」千葉貞雄さん・きちよさん
[宮城県本吉郡南三陸町歌津伊里前]昭和4(1929)年生まれ
Please use the navigation to move within this section.
© 2012 東日本大震災 RQ聞き書きプロジェクト 「自分史」公開サイト. All Rights Reserved.