文字サイズ |
結婚した人は漁師だね。支那事変(日中戦争の勃発)があって、昭和12(1937)年から戦争が始まったの。その頃は召集令状なんて、そんなに来なかったのね。昭和18~19(1943~4)年の頃は、男の人はみな召集令で戦争に行ったんだよね。私が昭和18(1943)年の春に嫁に行ってからすぐだけど、おじいさん(ご主人)も招集されて中国に渡りました。
おじいさん(ご主人)とはお見合いも、どうもこうもないの。結婚が決まった時には、どんな人だかもわかんないの。この人は船に乗って沖に行って、いなかったんたんだな。結婚が決まってから、結婚式まで、相手に会ったことなかったの。本当だよ、あんたたち笑うけど。親が決めんだもの。そんで、「いらね(いやだ)」って言ったらば怒られるしさ(笑)。親は怖いし、「どこさ出やれ(どこかへ出て行け)」と言われても行くとこもないし(笑)。
結婚式で会った時にはどうもこうも思わないね。前から顔だけは知ってたの。家が遠くでないからね。その前にちょっとは見かけたことはあったけど。話はしたことないよ。話は全然しないよ(爆笑)。好きも嫌いもなんとも思わない。仕方ないからねぇ。年が10も違ったのよ。だからさ、時代だのなんだのも違うしさ、合わないの。そんなに違うのを知らないで、嫁に行ったのよ。結婚前は相手が若く見えたんだ。あれ、そんなに違うなんてわかんねかったんだね。
結婚式は、着物で、つのかくしもして、支度はみんな家でやったの。黒い紋つきの着物でね、その頃は記念写真も何もないの。
私は昭和2(1927)年生まれで、大正15(1926)の人と学年は同じだ。その年に大正っていう年号が無くなったべっちゃ。そん時ね、昭和元年と2年と、1週間で年号が2年になったんだ(大正15(1926)年12月25日大正天皇が崩御、昭和に改元され、さらにその1週間後に年が明けました)。
だから、私たち同級生が3組いるの。どういうことかというと、戦争には、同級生なのに、大正15(1926)年生まれの人、その次は昭和元(1926)年生まれの人の順に早く行ったの。昭和2(1927)年生まれの私が兵隊に行かないで、戦争は終わったの。
私は予備士官学校を志していました。高射砲(こうしゃほう)を志望してたの。「飛行機を撃ち落とすべぇ」って、それを勉強したの。歩兵でなく、高射砲(写真)だ。
陸軍歩兵みたいな方法(かっこう)でなく、高射砲だがら、撃(ぶ)つことだけ練習。だけっども、歩(ある)くんでなく、1箇所(ひととごろ)でやるから一番狙われやすいし、すぐ見(め)っけられるんだ。終戦前、昭和19(1944)年あだりから、20(1945)年8月の終戦まで、高射砲の勉強ができたのも一時(いっとき)のことだったね。
終戦になってしまったから、戦艦に乗る志願はしてたけど、軍服もらっただけで帰(けえ)って来たよ。そのとき私は18歳でした。
あの時、教員採用の募集があって、自分は先生になったからやめたの。陸軍少尉だったか中尉だったか、女川の部隊長でいた人のことを思い出すんだが何て言ったべなぁ、あの部隊の名前は忘(わせー)ですまったなぁ。戦争が終わって、60年にもなるものねぇ。
戦争が始まったのは、私が19歳の頃です。その時はみんな挺身隊っていうのに行ったんです。私たち女性も兵隊みたいに引っ張られて、女学校もです。
私は、引っ張られずに家にいて、防空壕を掘って穴さ隠れたり、山さ隠れたりしました。男の人は行ってしまうから、艦砲射撃が来るまで、夜は、竹槍で「兵隊さ殺せ」とか言われて見張りもしました。
6尺くらいの長い竹をね。戦争中女性はね、どこで兵隊さんが来るかわからないから、「来たらば、この竹槍で兵隊さんを殺せ!」なんてね。
Please use the navigation to move within this section.