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震災から1年が経って、大分落ち着いて来ましたが、今度は自分の年齢のことなどをいろいろと考えてしまいます。国の対応も遅れていますし、移転希望や個別相談会もこれからで、復興には今から何年かかるかわからないですね。
前に住んでいた志津川にはもう住めないんです。本当は前の所に戻りたい。志津川ってのは、都会とは全然違って、みんな付き合いがあるからです。町内みんな顔を知ってる者同士ですし、銀行にいた関係上、近隣を2年ぐらい歩いたから、どこに誰が住んで、どういう人かってことが全部わかっているんです。
次住む場所は大体決まりましたが、これから必要な面積の希望をとってから買うことになるので、土地を手に入れるのがいつになるかわからない。しかも造成したらすぐに住めるわけじゃない。冗談でお寺の高台を分譲してくんないかとか言ったりします。被災者ってのは多くが70歳以上の人間ですからね。
家は、入谷の駅前、戸倉と湾サイドと3か所に分かれて移転するんです。私たちが住んでいたのは市街地だから、志津川高校の裏側と志津川小学校の裏側、それと湾サイドと同じ地区の人を、次も同じ地区に入れたいということなんですね。
もとの家の敷地は屋敷だけで400坪近くあって貸家もあるから、全体で500坪くらいあるのです。坪8万円とみているんですが、そうすると4000万が入ることになる。
しかし買い取りの代金がすぐに貰えないんですよ。替地する人たちが先になっちゃうんです。町にもそういう駆け引きがあるんですよ。被災地を買い取りするにも移転する人たちが優先になる。戻らない人は後勘定です。4年か5年後です。そうすると、先立つものがないから、家が建てられないんですよ。食べて行くだけの賃金を払う職場もないので、みんな志津川の外に出てしまいます。男はパートの680円や750円を貰ってもどうにもならないんですよ。
仮設住宅は今は無料で住めますが、3年目以降は賃料を払わなきゃならない。今、登米の仮設に来ている人も、志津川の方の仮設に入りたいと言って問題になっています。仮設が空いてればいいけど、空いてなければ志津川に移り住むことになり、補助金が出なくなることになります。自分で家賃を払って住むことになるんです。
私たちの今住んでいる佐沼の家は、小さい家だから認められましたが、2階建ての大きい家を借りた人は、登米市がみなし仮設住宅・賃貸住宅と認めなかったんです。書類に正直に書いたほうが悪いんです。2階はない物件を借りたことにすれば良かったんです。だれもそんなこと教えないから。
登米市は地元での死者が少なかったから、なるだけ余分な金銭を出さないように出さないようにしているのでしょう。私たちのようなよそから来た人には義理や、人情とかはないんです。
5人だから仮設住宅を2つ借りたんですが、狭くてね、いるところがなかったんです。そこから佐沼のこの家に移ったあとにね、テレビなどを借りることにしたんです。ある人に、6人で住むのなら、みなし住宅が仮設住宅として認められるということだったので、役場に行ったんですが、首を縦に振らないんです。仕方なく、自分で調べて、書類を一晩で書いてぎりぎりに出しました。おかげさんでテレビが借りられました。
それから市の人も家に廻ってくるようになりました。私はその人たちにいつも言うんですが、「70代の人にね、土地計画法第何条とか難しい専門用語を言ってもだめ、専用用語は使わないで話せ」って。銀行にいた私には、ある程度はわかりますよ。法律用語など、専門用語があまりに多すぎます。訳のわからないことを言う。「あんたたち自分のおやじさんに話すように話せ」っていうの。私にだってわからない法律がいっぱいあるんですから。
死ぬまでには家を建てなきゃいけないと思っています。だから、早くお金を貰えればいい。政府や国で早く土地を買い上げてくれ、代金を先に頂戴と言いたい。今高台移転で土地交換して家を建てたって1年はかかるんです。それが今から買収でしょ? まだ山で造成もしていないし、1年で収まらないでしょう。これから商店街や工場を形成することになるのですが、問題はそこです。高台移転したとしてもそこに雇用の場がないのです。もしこれを進めるなら自動車工場を引っ張ってくるとかすれば高台移転もスムーズに行く。
実は、私たちには売掛金で貸してあるのが台帳がないために取り戻せないでいるんです。地代や家賃が入ってこないところもあるし、そういう被害が大きいんです。自販機だって5台くらい持っていましたが。たくさん入ってたんだよ。売上げが少ないから毎日開けなかったけど。小金溜めてね(笑)。
酒屋の免許はありますが、再開しようという気はありません。息子はもう商売では食べていけないと分かっています。酒屋というのは、飲食店あっての商売で、ビールとか樽とか重いものを売って成り立つんです。一般個人の売り上げだけではだめなんです。復興市は観光客が来るので飲食店とおみやげは売り上げがいいらしいですが。
今、一番困っているのはね、水産加工業の人たちです。どこも人手が足りないのですが、復興需要で、建設業に携わる人は高騰し、農家の人たちは1万3千円、下水や側溝掃除に1万円が支払われますが、それより時給が低いんです。今から家を建てていくんだから、この傾向は5年は続くでしょう。また高台の土地は高くなり始めています。今、1人暮らしが20%くらいいるのではないかと思います。それに対しまともに働ける人がいる家庭なんてのは5割ないでしょう。食べていける給料を支払う職場なんてないのです。
「風の中、土に悠々と立つ──銀行マンの見た登米・志津川」須藤衛作さん(仮名)
[宮城県本吉郡南三陸町志津川]昭和7(1932)年生まれ
私たち農家のお正月といえば、昔は旧正月に祝ったものです。
お正月の準備は小寒、1月の半ばあたりに、まず凍(し)み豆腐を作ることから始まります。自分たちで育てた豆から、自分の家で作るんです。農家はみな、そうやったんですね、昔は自給自足でしたから。その豆で豆餅や納豆も作るんです。「ツトコ」といって藁で作った容器に入れて作る「ツトコ納豆」です。
それから飴餅です。聞いたことがないでしょう? 今でも、復刻して、道の駅なんかに売ってますよ。この登米郡地域のお正月には欠かせないものです。
飴餅の作り方はこうです。
秋に大麦が発芽してくると、麦芽っていうんですが、それを天日に干して、水に浸して「うるかし(湿らせ)」ます。その芽を使って煮た餅米をふかし、それと合わせて発酵させて、絞って煮詰めて、水飴を作ります。それを餅にからめたのが飴餅。私はそれが好きで、(結婚して登米を離れ)志津川に行っても、お正月には必ず飴餅を作ってる人を聞いて買ってきたものです。
飴餅のレシピについては、NHKの「今日の料理」のサイトに美しい写真入りで紹介があります。
また、飴餅を食べる時にかける、きな粉も自分の家で作ったんですね。きな粉用の豆を大きい鍋で炒って、石臼で挽き、ふるいにかけて作りました。豆は子どもでも挽けましたよ。中学生ぐらいになれば、手伝ったものです。飴餅にそれを混ぜて、食べるんです。うんと甘いんですよ。
そんな風に、私が住んでる志津川町と、登米のほうの餅は違うわけです。志津川の餅はあんこ餅だのクルミ餅だのですが、こちらの方は飴餅とか、あと納豆餅とかになりますね。雑煮はおんなじだけど。
あとちょっと変わった食べ物では、エビ餅っていうのがあるんです。これは、「沼エビ」を使います。今スーパーなどで売られているのは、ほとんどが茨城県の霞ヶ浦で獲れたものです。火の通った状態で売られていますよ。そのエビに醤油をかけて、納豆餅と一緒に食べるんです。
沼エビといえば、この付近はね、昔は「掘」と言って、川の小さいのでエビが獲れたこともありました。しかし、この一帯が改田(かいでん)、つまり全部耕地整理されて、水が流れていた田んぼが干拓されてしまい、水が枯れてしまったんです。だからもう、エビはいないし、ドジョウもいなくなったんですね。子どものころはドジョウを獲りましたよ(笑)。
小さいころからそういう手作りの正月を祝ってきたので、我が家のお正月は、こんな風に登米風に祝うんですよ。
「風の中、土に悠々と立つ──銀行マンの見た登米・志津川」須藤衛作さん(仮名)
[宮城県本吉郡南三陸町志津川]昭和7(1932)年生まれ
私が子どもの頃は、今より雪が多かったので、ちょっとした坂なんかは、ソリを使って滑っていましたね。それから、もっと面白い遊びはこうです。田んぼに水が張っていると、寒さも厳しかったから、氷が張るわけです。そこをスケートするんです。今のようなスケートじゃないんですよ。走るの(笑)。
スケートって言っても、昔はね、スケート靴を持ってる人なんてよほどの財閥ですよ。それでね、私たちは長靴に足駄(下駄に似ているが下駄より歯の高さが高く、鼻緒が前寄りにつけられ、
引きずるように履くのではねが上がらなかった)を組み合わせてやったんです。
まず、足駄(あしだ)っていうのはね、底が下駄と違って丸くなってるんです。この丸くなったところに、スケートの刃が入るわけです。鎹(かすがい)ってあるでしょ。「子は鎹」の。それをここにブツ(打つ)わけです。長靴に下駄の緒を結わえてくっつけます。下が鎹だから、溝もなにもないんです(笑)。
だから足で踏ん張るわけにはいかないわけで、スキーみたいに、杖もつくんです。杖は竹に古釘の細い釘を刺して作りました。
子どもは作り方は自然と覚えるもんです。みな自分で考えて自分で作り出すんですよ。簡単だから。そんな風にちびた足駄の歯を抜いては作り、凍った田んぼや池に行ってはスケートするんです。面白い遊びでしたよ。
中には排水されて水のない田もあったんですよ、そこをスケートしたさに、「凍らすべ」って、自分たちでわざと掘をせき止めて水を入れて。怒られるわね(笑)。
スキーなんかも、竹を割って、火であぶって曲げた竹スキーってやつを、子どもたちはみな、自分で作りました。竹馬だって全部自分で作る。なにせ売ってないから! 竹馬はね、誰でも作れるんです。
昔はコマも作りましたが、わりあい簡単なんですよ、あれは。材料は「いなご」というクリの木で、稲を乾かすときにかける「ほんにょ」に使う木ですが、それを切って作ります。ただ器用でないとね。学校でも本当は作らせればいいと思うんですが、怪我させるのを怖がって作らせませんね。私たちは、小刀やノコギリやナタでもなんでも、平気で使っていました。
夏の遊びもいろいろですよ。旧迫川(はさまがわ)で水遊びです。今みたいに綺麗な川ではありませんでしたし、学校の生徒1クラスの30人も40人もの生徒がいると、砂だらけ、泥だらけになってるのね(笑)。今は汚染物質だなんだって言って泳げないけど、当時は各浜にみな海水浴場があったんです。志津川あたりでは、荒島(ありしま)だの、防波堤の外で泳いだものです。昔の人たちは、少々のごみなんか、なんとも思わないんです。川だって泥水でもいいんだから。そのぶん、みんな丈夫でした。
今はなんでも売ってるから、買ってくれば用が足せるけれど、昔は遊びの道具は、こんな風に自分たちで作ったんです。
戦争当時は、男の人手が足らないっていうんで、子どもたちから女の人たちまで、「なければないで、なんとかする」、みんなこういう自給自足を日常的にやってきたわけです。だから私たちはいろいろ災害があっても強いんです。
「風の中、土に悠々と立つ──銀行マンの見た登米・志津川」須藤衛作さん(仮名)
[宮城県本吉郡南三陸町志津川]昭和7(1932)年生まれ
志津川の養父母の酒屋は、志津川で製糸工場が倒産して、その経営者の家屋敷を買い取ったのが始まりなんです。90年くらい前の話ですが、1000坪ぐらいあろうかという相当なに大きな屋敷だったんです。当時うちの養父(おやじ)がね、德陽無尽(のちの德陽相互銀行)っていう無尽会社の下請けをやっていたので、周囲の人たちと、共同でその家屋敷を無尽にかけてて、その金で興業銀行から買い取ったんです。そしてうちは一番広い面積、約390坪を買い取りました。そしてその年から後、ずっと酒屋をしていたんです。だから、100年近い歴史があったんです。
ところが、その家は一度昭和12(1937)年の志津川の大火で全焼してしまったんです。大火で残ったのは、40坪の広間だけでした。それを私たちが母屋にして、酒屋をその前に出して再開したんです。ちょうどそのとき、養母は大学病院に子宮筋腫で手術入院していました。私たちが酒屋の商売を再び始めたころ、やっと大学病院を退院しました。
酒屋の屋号は「カクヤマ」です。由来は、養父がこの酒屋を買う前、德陽の無尽をやるもっと前に、登米の旅館に勤めていた時代にさかのぼります。登米市でも2、3番の金持ちで、酒や醤油を造っていましたが、養父はそこで何年か勤めてたんですね。そしてのれん分けしてもらったんです。そこの苗字が山田というので、「カクヤマ」となったわけです。残念ながらみな潰れてしまいましたが。
うちの2階には、かつて德陽無尽が事務所として借りていたことがあります。その後、敷地内の庭に事務所を建てて、養父(おやじ)がそこで働きました。家を改造するときに取り壊してしまったんです。
「風の中、土に悠々と立つ──銀行マンの見た登米・志津川」須藤衛作さん(仮名)
[宮城県本吉郡南三陸町志津川]昭和7(1932)年生まれ
結婚して志津川に行ったのは、私が27歳、これ(恵子さん)が23歳のときだったと思います。銀行に入ってから結婚しました。ちょうど伯母の家に子どもがなかったから、これが先に養女に入っていて、私が養子に入ったんです。
翌昭和35(1958)年、チリ地震津波がありました。義母を背負って、水のある所を走って逃げましたが材木がドンドン流されてくるんです。津波ってのは、川沿いが一番水の流れが早い。さらに水は川から溢れて道路に流れるんです。だから、津波の押し寄せる背後からでなく、川から溢れたその水で前から攻められてしまったんです。逃げ道遮断されたような格好のところを、津波の勢いが弱かったこともあって走って逃げきれたんです。
たんすも衣類も水浸しになってしまいました。その時は、荷物を2階に持って上がってたら、汚れずに済んだろうにって思いましたね。
しかし今度は、そのチリ津波の記憶が悪くはたらいて、逃げない人が一杯出たんです。「どうせ2階にいれば良いんでねえか」とか思ったんですね。
「風の中、土に悠々と立つ──銀行マンの見た登米・志津川」須藤衛作さん(仮名)
[宮城県本吉郡南三陸町志津川]昭和7(1932)年生まれ
9月になると、夜が明けるの待ってキノコ採りに行くんですよ。いろんなキノコ採って、うちに帰って風呂に入ってご飯食ってから出勤だから!(笑)
キノコはね、私は先生ですよ。大体分かるんです。その代わり、本は随分買って勉強しましたよ。足が弱くなった頃から、いつキノコが生えたかというのが分かってきたんです。なぜかというと、お客さんが私のところにキノコの鑑定に持って来るんですよ、「これ(食べられるか)見てくださいって」。
それを見て「生えた」っていうのが分かる(笑)。それから採りに行くわけです。そうなんだよ、みんなみたいにね、早くから探して歩かないんです(笑)。ここは歩かなくても分かるんだもん、ちゃんと鑑定に持ってくるから。キノコっていうのは、普通の人たちは遊びながら行きますが、午前11時頃行っても無いんです。朝、もう夜明けに、きれいに採ってしまった後ですからね。そして採った人は跡を残さない。後から行くと小さなキノコも何にも無いんだから(笑)。だから早く行ってしまわないとだめなんです。
キノコ作りも家の庭先でやってるんですよ。今はヒラタケを植えてるんです。志津川の家は庭が広かったので、ほだ木を買ってきてシイタケ、ヒラタケ、ナメコの3種類、特に、シイタケは200本くらい育てていました。
市販のキノコの株を「スポン」と切ったのを構わないでおくと、うんと大きくなるんです。ナメコだってそうです。小さいのが良いなんて言う人もいるけど美味しくないですね。笠が開いてきた大きなナメコの方が美味しいんです。
我が家ではいろんな種類を育てていたので毎年、お正月ぐらいまでキノコが採れました。早生、中生、遅いのとうまく組み合わせて育てます。ベランダでも簡単にできるんですよ。お正月に食べたかったら、「晩生(おくて)」を買い、うんと早く食べたい時は、「はやて」を買います。種類いろいろあるから、よく調べて。私は生産者から直接注文しています。晩生(おくて)が美味いんですよ。
キノコ採りの季節は9月頃から11月初めまでで、1種類が10日ずつ採れて変わっていく。それを狙って行くんです。
一番先に出るのが、東北原産の「ハタケシメジ」と松茸。
次にアミタケ。それからアケボノ。みんな採って食べてんのはね、「ウラベニホテイシメジ」。毒キノコの「イッポンシメジ」に似ているんです。間違うと、毒キノコを食べてしまいます。
毒キノコのイッポンシメジは傘の開いた成菌のヒダは少し赤みがかった肉色をしているし、柄はスカスカの繊維状。
イッポンシメジは食べると死んでしまいますよ。死ななくても相当の重症です。知らない人たちはね、「イッポンシメジだ」と言って採ってきて食ってますが、本当の名前は「ウラベニホテイシメジ」なんですよ。
ところが、図鑑ってね、何回買っても実物と写真が合わないわけ。色が違ったりね、格好が違ったり。だから私は図鑑を3冊も4冊も買ってみたり、わざわざ仙台まで書籍を探しに行ったりしました。そうやって特徴を覚えたんです。
当時志津川でキノコ栽培してる人がいなかったんです。志津川では、昔は町役場なんかのある付近で採れたんですが、工業団地が造られたから今は生えません。昔は松茸も生えていたんですが、今は、ほとんど採れなくなりました。環境が悪くなったせいでしょう。酸性雨などにやられたんだね。今は強い、本当に酸性雨に強いのが残ったんですね。
銀行にいたときは、とにかく無料サービスばかりしていて暇がありませんでした。私は趣味が多かったから、ある程度はね、暇があったほうが良かったんですが、麻雀は週に1回はやっていたし、囲碁は段を取っていましたし、その上に、こんなふうにキノコ採りもやるんですからね。暇を見つけてはこんな風に採って歩いたから、やっぱり人生はね、忙しい(笑)。
「風の中、土に悠々と立つ──銀行マンの見た登米・志津川」須藤衛作さん(仮名)
[宮城県本吉郡南三陸町志津川]昭和7(1932)年生まれ
息子さんのお話 私は津波の時は、隣のおばあちゃんを引っ張って逃げました。私の部落は孤立状態になってしまったんです。下の方は全滅です。自分の土地への建設は不可能だと言われています。具体的な話が、行政側がはっきりしていないから、説明会もやっていません。だから皆不安なんです。将来のことも考えられないし、宙ぶらりんなんです。この平成の森仮設は、大き過ぎます。知らない連中でまとまらないです。「住めば都」と言いますが、3カ月経ちますが、慣れないねぇ。狭いよねぇ。
私は、避難所には入らなかったんです。親類の家に1カ月近く。爺ちゃんの弟が歌津の名足浜にいるから、そこにお世話になりました。
それから、気仙沼の兄弟の家に半月位。その後ここの仮設住宅が当たったんです。息子夫婦は、細浦の親戚の家を借りていて、私と爺さんで、爺さんの弟の家へ、名足と気仙沼にお世話になりました。それで、ここの仮設が当たったから、1週間の間に入居しなさいっていうので、6日にここに入りました。
避難所と言われても、私は暮らすのは無理でした。腰が悪くて、骨粗鬆症で入院してたこともあるから、若い人と一緒の生活はできないと思いました。兄弟のところでは、毎晩湯たんぽを入れてもらって暖かくしてもらいました。
お嫁さんのお話 食べ物も避難所は1日2食です。やっぱり3食ねぇ。ここの仮設は、いくら兄弟の所と言っても、長くなると疲れが出るから「まあ、どこでもいいや」って申し込みました。1日も早くと思っていました。
地元にも仮設は建ったんですが、もう、こちらが当たったのでね。
私たち、地震のあった時はね、爺ちゃんがテレビを観て、「こんだ(今度は)、大変だー!!」「地震だから、婆ちゃん、出払え〜!!」って叫んでね。
外へ逃げたから、爺ちゃんは1人、私とお母さん(お嫁さん)は一緒、お父さん(息子さん)は1人で、3台で逃げました。センター(細浦地区で避難所に指定されていた細浦生活センター)さ、避難しないとね。
センターさ行ったら、「ここじゃ危ないから高台へ行け」って言われて、お寺さ行って、そしたらお寺もダメだから、ご先祖様のお墓の上で寝たのよ。今度の津波は、潮があんまり引けなかったね。そうして波が来たから、相当高いのね。みんな流されたから、こないだったらウチも流されるなぁって覚悟しました。
昭和35(1960)年チリ地震のとき、私がいたのは歌津だから、海は若干潮が引いたのは覚えてますよ。小さい頃でしたから、親たちが「海さ行くなよ」と言ってたのは記憶があります。志津川が大きな被害を受けたというのは後でわかった話だね。歌津地区はぜんぜん被害がなかったですから。
3月11日の震災当日、私は議会の最終日で登庁していました(※町役場本庁舎の2階が議場。防災庁舎は隣)。
実は、2日前の3月9日、津波騒動があったんです。高さが50センチで大したことなかったんですよ。2日後の11日の夕方2時45分ごろ、町長の議会閉会の最後の挨拶のときに地震がきたんです。すごい強さの、とんでもないのが来たなと思いました。みんなで机の下に隠れてました。
すぐに揺れが収まったんで、仲間と2〜3人で階段をすばやく駆け下りました。その時、普段議場にいるときに履いているサンダルを、皮靴に履き換えたのが本当に良かったんです。外に出ようとしたら、議会事務局の職員の女性が震えてしゃがんでいました。「いくべ、立て!」と手をつかんで引っ張り出しました。彼女を外に出して、「とにかく逃げろ」と言いました。
職員はかなりの数が庭にいたし、締め切りを控えた確定申告のお客さんもたくさんいましたから、そこに向かって「大きな津波が来るから逃げろ!!」って叫んだんです。後で、「あの時、あんたが逃げろって大きな声出さなかったら、助かってなかった」と、そこにいたお客さんたちに言われました。
自分が駐車場から車を出した時に、同僚の議員や、引っ張りだした女性がまだそこにいたので、「逃げろよ!」と言ってから逃げました。ところが、結果的にはその女性は津波に流されたのです。あの後、同僚の職員が誰も来ないからって、また庁舎の2階に上がったらしい。だから議会事務局の4人はみんな流されて死んでしまった。彼女は近くの駐車場に自分の車があって、まさかまた2階に上がって行こうとは夢にも思いませんでした。今考えると無理にでも車に乗せて走っていけば良かったと思うことがあります。お子さんのいる方で、写真を見て、言葉が出ませんでした。
ある職員などは津波に巻き込まれ、流されたのですが、目の前に畳が流れて来て、その畳にすがって助かったというのです。そのまま何キロも上流に押し流されて行って、今度は強い引き波で戻され、たまたま病院の4階だか3階だかにたどりついて、そこに人が一杯いて助けられたそうです。
今ではサーフィンしてきたんだな、なんて冗談にできますが、「その時はどうだった?」と様子を尋ねても「何にも覚えてない」と言っていました。またある人は、防災庁舎の上に逃げたけれど、津波の力がすごくて、掴まりきれずに流されてしまったのですが、どこかの鉄のパイプに足が挟まって止まり、助かったのです。生死の境は紙一重なんですね。それが何なのかはわかりません。
ここ南三陸は気仙沼と広域行政っていうのがあって、消防・救急を、共同でやってるわけです。震災後、そこに台湾の団体から3000万円の寄付が来たことがありました。なぜ台湾からわざわざ?と尋ねてみると、実は、防災無線で最後まで放送した遠藤美希さんの話を台湾の人が耳にして、心を動かされたので、防災面で使ってください、ということで寄付したというのです。その後、野田総理の所信表明演説でも彼女の名前が読み上げられましたね。
今にすれば、涙なくして語れない部分って言うのが沢山ありますよ。津波の前では、本当になんともならないことがあるのです。助けられず、目の前で沈んでいった方々も多くいるわけですよね。そのショックも大きいんです。実際にその場にいた方は、言葉には出しません。ほとんどの人は、巨大津波に対する経験がないもんだから。
防災庁舎で行方不明者が今も30数名で、町長などが生き延びたことで、「偉い人から高いところへ登ったのか」という声も聞こえますが、みなさん助かりたいって気持ちは同じだったって思います。防災庁舎がたまたまそんな場所にあって、波もすごかっただろうし。
歌津に帰るまでに津波が来ると思ったから、避難所になっている高台の慈恵園という老人養護施設に車を走らせました。慈恵園に着くと、雪が降っていました。
デイサービスを受けるのにお年寄りがたくさんいたので、職員が、寒いからと、その方たちに毛布かけたり布団掛けたりしていて、手伝っていました。寒いからにテント張ろうということになって、組み立て始めて、海のほうを何気なく見ると、「バリバリ」とか「ゴロゴロ」とか、最初雷かと思うような音が海からしてきました。黒い海から赤い煙がガーッと出た。
そして、こちらにだんだん迫って来たんです。火じゃなくて赤い煙が迫ってきたんですよ。屋根が浮いて来たから、「あ、これは津波がくる!! 逃げろ~!!」って叫びました。職員は「えっ? こっから逃げるんですか」なんて言ってる。
「そうだ、津波がここに来るから逃げろ」
そこから、職員もヘルパーさんも慈恵園から車いすを一斉出して何十人と移動を始めました。みなさんが非難して、自分も逃げ始めましたが、津波がどっちから来るかわからない。たまたまそこに行政区長さんがいたから「どこでもいいから逃げろよ」って声をかけました。そしたら、「山、山」って。裏山に逃げろってことですよ。杉山。
その山が足元が滑るわ、穴が一杯開いてるわで、だから皮靴に交換して良かったんです。あの山はサンダルなんかじゃ歩けない。目の前を女性職員が2人いたはずがいつのまにか1人が歩いていないんです。ぱっとみたら腰を抜かして、木の根っこに倒れてしまっている。「波来てんだから立て!」と言っても立てないのです。「死ぬぞ」っ馬鹿力を振り絞って立たせて逃げたんですよ。今でも腕が痛いんです。その女性がスリムでなかったもんだからさ、ちょっと重かったんだな(笑)。
ここでは、他のデイサービスの施設にも津波が来て多くのお年寄りが流されました。でも、高校生が結構助けたんです。手と手を繋げて助けたんですよ。先生は「危ないからやめなさい、やめなさい」と言うんですが、生徒たちはその現場を見てるから「助けねばならねえ」ってじっちゃん、ばっちゃんを助けようとしたんですね。それでお年寄りが何人も助かったわけです。
ところが、その方たちが今度は、低体温症でみるみる死んでいった。そのショックが生徒たちには大きかったんです。「助けたのに・・」って。で、目の前にその時の現場が見えるから、しばらく「学校に行きたくない」という子たちもいたのです。
昔は、小学校を6年卒業すると、尋常高等1年、2年とあって、それから女学校です。今の高校です。部落から、同じ学年に約20人にいて6人かな? 進学しました。学校までは、歩いていきます。片道2時間、往復4時間です。今の志津川小学校前までです。
(中略)女学校では、お裁縫とか料理とか家庭科で、縫って染める絞り染めも習いました。編み物も基礎から編み方の種類も、1つ編み、2つ編み、かぎ針もね。洋裁も習いました。自分で裁って、子どもの服もセーターも作りました。染物は、染め粉を買ってきて、白い反物を、絹物でも、模様をつけるのにギューッと絞って、手で縫ってキューっと糸を巻いて、花模様や葉っぱとか、そういうこともやりました。着物の布を裂いて、ずーっと長く裂いて編み物もしました。今みたいな毛糸がなかったからね。かぎ針も棒針編みもやりました。
私たちは、1枚のお母さんの着物をもったいないって、ちゃんと型をとって、羽織1枚から洋服1枚。自分でちゃんとやって学校へ着て歩きました。
今の子たちは、遊び場もいっぱい増えて、わけわかんないくらいオモチャもあるけど、昔はそういうものがなにも無いんだものね。
遊ぶものなんてないから、海へ行くと干潮で波が引けるでしょ? そうすると、長い棒を使って貝を獲ったり、川へ行ってトンボを獲るような網で魚を獲ったり、そういうのが遊びでした。お金がかからないような遊びをしていました。
すかんぽ(イタドリ)って知ってる? 切って酢に漬けると真っ赤になるんです。きれいに。そうするとそれをおかずにしてお弁当に詰めたりしました。漬物です。後は、蕨を採ってきて煮物をしたり、蕗を採ってきて、漬けたり煮たり、お茄子を煮たり・・・。そういう仕事を、学校から下がってきてからしました。
いろいろな大人の真似をしました。