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津波のあと、3日も息子に会えなくて、私は死んだと思ってたよ。息子は志津川湾に船を見に行っていたときに津波が来たの。うちの船は3艘あったんだけど、ひとりで全部を見るわけにも行かないから、2艘はすっかり流されました。志津川湾の道路のところから見ていたら津波が来たから、上へ上へと上がって行ったの。
波が引いて、落ち着いてから、家があったところに私も行ってみた。地図も何も無いから、「おばあさん、全部流されたから行ってもダメだよ」と言われても、「まさか、そんなことねえべ」と思って本気にしないで行ったの。そうしたら、本当にトラックの底は抜けているし、乗用車はポコンとへこんでるし。家の中には、鍋2つに、まな板と包丁まではみんな見つかったけど、あとは何もかもなくなってた。近所の養殖ワカメの加工場があったところは、釜から、タンクから、スッポリと抜いたように流されて無くなってた。周囲には、顔にマスクをした人が大勢お金を探して歩いていたね。そんな風に探している人が大勢いるものだから、私たちもその場を動けずにいたの。
辺りは人も通れないくらい、滅茶苦茶になっていて、志津川からここまでたどり着くのに、普通なら30分もかからずに行けるところを、ぐるっと遠回りして、何時間もかけてようやくたどり着いたの。だから、息子も来られなくて当然だったんだ。そして、3日目にようやく歩いて来たの。車もなければ、着るものもなし、来る途中には、少し高台の細浦の交番に泊めてもらって、そこが一軒家だったから2階から布団を持ってきて、周囲の部落の人と一緒に雑魚寝して過ごしたって言うの。そこにしても、水も無ければ電気もつかず、食べるものも無かったんだね。
このあたりの人たちは、本当に夫婦で語るヒマも何もないくらい忙しいんだ。ヒマあれば働かねばならないし、あんたたちにはちょっとわからないでしょう。だけどそのくらい、農家というもの、漁師というものは、ヒマがないの。だからここいらの人は働き者だから、お金はいっぱい。心もいいし。だけども、この津波が何ほどだって、誰にもかなわないなあ。それが涙流れるほど悔しい。
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