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やがて戦争が激しくなると、今度は労働力としての「徴用工」でなく、「少年兵」として徴兵されました。その頃は、国民学校の高等科の頃から、男の子は下士官を志願し、1年生を終えた時点で補充兵として徴用されていく時代でした。軍隊に入ると一番下の階級の2等兵になり、一等兵、上等兵、兵長、伍長、軍曹、と階級が上がって行きますが、伍長・軍曹までは実戦の時には居場所が悪くて敵に狙われやすく、すぐに殺されてしまうような存在でした。
私の隊は最初に九州に行きましたが、2週間ほどで移動命令が下り、大陸に渡ったのです。徴用した漁船で博多から朝鮮に渡り、貨車で満州・山海関を通って香港に行き、広東の中山大学に集結し、仙台84連隊第12中隊に入隊しました。そこで作戦が始まりました。入隊した隊は「泣く子も黙る原兵団」といって、冷酷な作戦部隊でした。その中で、私たちは先遣隊として、犬を連れて敵がいないか確認する役割でした。部隊に割り当てられた軍用犬は6頭いました。班長は軍曹で、私はシェパードの「オルモ」に餌をやったり、洗ったりはもちろん、犬小屋があるわけではないので、寝るときには腰にリードをつないで軍犬と一緒に寝起きするのです。軍犬は人間よりも良い缶詰を餌として与えられるので、軍犬係の中には、空腹に耐えかねてこっそり犬の餌を食べてしまうものもいました。逆に犬が死んで自分が助かった兵もいました。
昭和1年(1938)年尋常高等小学校卒業後、北海道に渡り、室蘭の夜間の養成校で旋盤工技術を4年間学びました。昼間は父の弟、つまり、おじが所長をしていた関係で、日本製鋼に入りました。父の弟が北海道の相川町に婿入りしていたのです。ちなみに、おじの息子は陸軍中将まで昇進し乃木将軍に自筆のものをもらったというくらい、軍で出世した人だったそうです。
しかし卒業の半年後(1943年)に体調を崩してしまい、宮城の実家に戻りました。そこから3カ月しかたたないうちに、今度は戦時徴用で60人ほどの仲間と共に東京・板橋の造幣局に「徴用工」として送られました。造幣局は軍需工場になってしまっており、私はプレス機械で弾丸を作る仕事をしていました。住んでいるところは練馬だったのですが、豚小屋がそばにあったり、タヌキが出るような田舎で、道に迷ってぐるぐる歩き回ったことを思い出します。
その後、半年でできたばかりの仙台の軍需工場(正式名称・東京第一陸軍造兵廠仙台製造所、1941年に仙台市苦竹に新設された)に移動になり、昼間は高射砲の弾丸を作りながら夜間は宮城野青年学校に通う生活をしていました。
(「苦竹(にがたけ)」に軍需工場があった-戦時下の生徒たち
—仙台三高新聞部文化祭発表資料より)
勤務体制が11時間拘束の昼勤・夜勤2交替制。
技師、養成工、徴用工、女子挺身隊、学徒動員による生徒・学生たちがおり、魚屋をはじめ八百屋、芸者など様々な職業の出身者がいた。工場構内に宿舎と寮が完備されていた。
●軍需工場
敷地はコンクリート製の塀に囲まれていた。北側と南側には通用門があって、守衛によってボディチェックがおこなわれていた。この工場では、主に、20ミリと12・7ミリの航空機関砲の弾丸を作っていた。この工場は第1から第4工場まであり、その他に養成所(教育工場)や木工場、本部、病院、宿舎、所長宿舎、貯水槽、事務所、大食堂、石炭庫などがあった。
第1工場:機関砲弾の弾体の製造
第2工場:機関砲弾の薬莢づくり
第3工場:機関砲弾への火薬装填作業
第4工場:機関砲弾の信管工場
教育工場:養成工としての訓練を受ける所
木工場 :防火用の柄杓作りなど
工具工場:制作工具を作る所
また、構内には、できた製品を輸送するために、鉄道の引込み線があった。2本の引込み線は陸前原町駅まで続いており、そこから仙石線を経由して空軍へ運ばれたという。 熟練工のような技術と精密さを要求される作業を、それも大正15年製などという古い旋盤機械を使って、ほとんど素人が行っていたため品質は良くなかった。終戦直後、進駐軍がこれら造兵廠の不良品や日本の兵器、建物などを取り壊したり、焼却したりして、今の宮城野原総合運動場の所に、直径およそ100mの大きな穴を掘って埋める作業をした。
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