文字サイズ |
そして翌年昭和10(1935)年3月20日、奉天、今は瀋陽っていいますけど、そのそばの鉄嶺(てつれい)(=現中華人民共和国遼寧省)というところで、長男として私が生れました。けれど、3歳で哈爾濱と長春の間にある徳恵(とっけい)という町が父の勤務地となり、そこに引っ越してきました。物心付いた時には徳恵に住んでいたので、鉄嶺のことはぜんぜんわからないですね。
そして私は徳恵の小学校に入りました。その頃は日本人が満州を支配していたので、日本人だけの学校であり、日本の教科書と同じものを使って勉強しました。私が入学する前の1年生の教科書は「サイタサイタ サクラガサイタ」で始まりましたが、私たちは「アカイ アカイ アサヒガノボル」で始まる教科書になったんです。日本は神の国、アメリカやイギリスは鬼だと教えられたんです。3年生、4年生の授業では敵を玉砕するんだっていう教育を受けてきたし、学校卒業したら予科練(注※)が有名だったから、予科練に入るんだ、と思っていましたね。
徳恵は冬になると零下20度、30度になります。私は小さい時から本当に体が弱くて、病気ばかりしていたのですが、5歳になったときに、父からスケートを教えてもらうようになりました。冬になると小学校の校庭に夜のうちにパーッと水撒いておくと、もう、一晩でスケートリンクができる。電気をつけて、毎晩、父に連れられて、スケートをしたことを覚えてますね(笑)。贅沢なことでした。そのおかげで、1年生から4年生まで、校内のスピードスケートの大会では負けたことがなかった。ずっと一番だったんです。そのことを孫にも言ってきかせたりするんですよ(笑)。
その後、父が助役をしていたために転勤、転勤で、4年生になったときに綏化(すいか)という町に引っ越しました。綏化では満鉄の社宅に住んでいました。赤いレンガの平屋建てで、2軒が一棟になっている建物が並んでいました。間取りはだいたい覚えています。
石炭を焚くと、中央の丸いペチカが家全体を暖め、冬でも裸で過ごせるほどでした。石炭ではお風呂も沸かせました。台所の横の畳の部屋には、棚とその上にラジオがありました。南側が庭のようになっていて、夏は洗濯物を干したりしましたが冬は室内干しです。ドアは3重に、窓は2重になっていました。
Please use the navigation to move within this section.