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小学校のころは給食がなくて、お弁当を持っていったのですが、家は田んぼと畑と海があるでしょう。そういう志津川の生活ですから、親は大変だったと思うけれど、子供はあんまりひもじいとか、大変とかいうことはなかったですね。
ただあの、お弁当を温める暖飯器って知っていますか? 下に炭を置いて、段があって、そこでご飯を温めるんですね。そうすると、お漬物が匂っちゃって。一番下はあったまるわけね。そしたら2番目の人が今度は下に行って、交互に温まるようなっていて。アルミのお弁当だから、角が腐食するようなお弁当箱だったんです。
人のお弁当を見るなんて、あまりなかったのですが、おかずなんかないですから。梅干しはいい方で、まずご飯を入れて、味噌を入れてくる人が多かったですね。
その他はたくあんしかなくて、それをみんなご飯に入れてくるから、私たちクラス40人から50人くらいいましたので、匂いがみんなついちゃって。そんな学校生活でしたね。
そのころのお弁当の中身ですか? 梅干が入っていれば、上等なんだよ。沢庵(たくわん)は臭いから、持っていかないんだよね。ほかには、味噌が入ってましたね。おにぎりだの、お弁等缶だのを持っていくこともありました。
甘いものは、お金を出さなければ買われないから、そんなに食べられないけれど、少しは食べられたの。戦争当時は、甘いものひとつも無かった時期(とき)が2~3年くらいあったから、私たちは食べたけども、昭和19(1944)年生まれの大きな娘は食べられなくて可哀想だと思ったけどね。その前は甘いものあったよ。
干し柿は年中あったよ。夏んなるとカビが出るから、食べごろはその前までだけど。どこの家でも柿がなるからね。それも玉子柿、こんなちゃっこい(小さい)柿なんだ。今のように大きい柿は植えなかったんだよね。ひとりして育って、ひとりして生った柿なんだよねぇ(笑)。
飲み物は、お茶と麦茶くらいだね。あとサイダーもあったんだよ、お金出せば。今ないんだけど、瓶さ玉が入って、ああ、ラムネだ。あいつが出てきたんだよね。今はないけどね、あんなのはあったよ。お金出せばね。
お米は食べられたと言っても、いろいろなものを混ぜて食べました。麦ばかりじゃなくて大根の葉の干したものや、ひじきご飯とか、サツマイモのご飯だとか、いろいろです(かて飯)。食べ物が本当に無い時代でしたから、学校のお弁当にはサツマイモを蒸かしたものや、きんとんを持って行きました。
きんとんってわかる? じゃがいもを煮て、皮を取ってすりこぎで潰してね、家族が多いから、お餅をつく臼に皮をむいたじゃがいもを入れてペッタンペッタン潰して少し粘りを出してから丸めて、花みたいにひねって格好をつけて。砂糖が無かったから先っちょに味噌をつけて、それを弁当缶に入れて持って行ったりしました。
家で畑もしていたから、小麦を蒔いて、小麦の粉で今ならホットケーキみたいなのを焼いて食べたりもしました。
砂糖といえば、戦後、小学校5年生くらいになると砂糖の配給がありました。その砂糖も、ザラメみたいな、目の細かいザラメって感じで、そこに毛布や南京袋のクズみたいなのが混じっているようなやつ。今なら大騒ぎでしょうね。その頃一緒にとうもろこしの粉も配給になったので、やっぱりお菓子を作ったね。作ったお菓子に砂糖をつけて食べて・・・。いろいろな代用食も作りました。
「埴生の宿 Home, Sweet Home」幸田理子さん(仮名)
[宮城県気仙沼市本吉町]昭和12(1937)年生まれ
小学校3年生までは近くの上沢分校に徒歩で登校していました。小学校4年生からは、伊里前(いさとまえ)小学校へ自転車で通いました。
本校では最初はお弁当でしたが、お弁当を手で隠して他の子に見られないように食べている子がいたのを覚えています。麦飯のお弁当に海苔を一面にベッタリとはって醤油をたらしただけのお弁当などで、見られるのが恥ずかしかったのかな。私自身は、そういう食べ物が大好きだったんですが。
小学校4年生から給食になって、食事の雰囲気は変わりましたね。皆が同じものを食べられるようになったんです。割烹着に三角巾をつけた給食当番が、寸胴鍋を運んで、アルマイトの入れ物に分ける。好き嫌いもできないし、みんなで和気あいあいと食べられることが嬉しかったです。脱脂粉乳が苦手で、飲んでもらう代わりに別の物をあげる子がいたりしました。私は、小学校3年までは先生に注意されるほど好き嫌いが激しかったのですが、そのうち好き嫌いがなくなりました。
それでも淡水魚はいまだに苦手です。渓流釣りは好きなんですけどね・・。
当時は停電になる日があり、その時だけは給食が出ないので、お弁当持参の日というのがありました。その日は、お弁当を持ってくることができなくて外で時間をつぶす子もいて、今でも忘れられないものです。長じて自分が親になり、PTAの役員をしていた時に、保護者が給食の味に多くを注文する場面を目にして、そういう保護者にも給食が出来た理由を知って欲しいと思いました。我々の時代に、子どもの栄養の偏りをなくすためにできたのが給食です。みんなで楽しく平等に食事ができるための給食なんですね。
家業は本業の林業が主体で、山を約120ヘクタール所有し、昔は馬も1頭飼っていました。その他には田畑が1ヘクタール以上あって、この田畑を借りて耕して生計を立てている方たちが近所に住んでいました。麦を畑で作っていた時代です。
叔父は、馬の世話のため、朝の草刈り作業に行く時は、木の弁当箱(ひつこ)にご飯と味噌や梅干を入れて持って行ったそうです。
小学校は伊里前小学校です。私が小学校1年生の時が終戦です。だから、ノートって無かったんですよ。朝の連続テレビ小説「おひさま」、やっていますね? あれと同じ時代です。物が無い時代です。
ノートがないから、石板に蝋石(ろうせき)で書いてね。で、その場で消すわけだから、何も残っていません。小学校3年生くらいまで、そんな感じでした。
お昼も、食べ物がほとんど無い時代なものだから、お弁当なんだけれども、持って来られない人もいて、それで学校を休む人も結構いました。例えば、さつまいもを2本くらい弁当缶に入れて、それがお昼ご飯・・っていう風な。その、さつまいもも、なかなか持って来られない人たちは、学校に来ないで休んだというような、そんな時代でした。お弁当を腕で隠して食べてね。
持って来られない人は「山学校」と言って、家は出るんだけれども学校へは来ない。山を歩いて食べられそうなものを探すんです。飢えてるからね。同級生だけじゃなくて、もう食べるだけで精一杯という時代だったんです。それでも、歌津は比較的真面目だから半分以上は学校に来ていたと思います。クラス全員が揃って出席なんて日はほとんどありませんでしたね。食べ盛りがいる家は、食べ物のやりくりに大変だったと思います。
履物も、その頃は、ズックとか長靴が無いから、雨が降ると裸足で学校へ行くんです。それで、伊里前小学校の池で足をザブザブと洗って教室へ入る。私は、幸いにして裸足で学校へ行ったという経験は無いけれど、遠くから通ってくる人たちは裸足で、それに傘とか合羽も無いから、ケット、毛布ですね、それを頭から被って、あるいは蓑笠、テレビで観たことある? お百姓さんが、昔着ていた藁で編んだ蓑と笠です。そういうのを着て学校へ通っていた人がいた時代です。普段は草履か下駄です。藁で編んでね。藁草履です。子どもが自分で編むということは無かったですね。草履を編むのは、雨の日や夜の仕事でした。
私は学校が近かったんです。家から250メートルくらいでした。
今の子たちは、遊び場もいっぱい増えて、わけわかんないくらいオモチャもあるけど、昔はそういうものがなにも無いんだものね。
遊ぶものなんてないから、海へ行くと干潮で波が引けるでしょ? そうすると、長い棒を使って貝を獲ったり、川へ行ってトンボを獲るような網で魚を獲ったり、そういうのが遊びでした。お金がかからないような遊びをしていました。
すかんぽ(イタドリ)って知ってる? 切って酢に漬けると真っ赤になるんです。きれいに。そうするとそれをおかずにしてお弁当に詰めたりしました。漬物です。後は、蕨を採ってきて煮物をしたり、蕗を採ってきて、漬けたり煮たり、お茄子を煮たり・・・。そういう仕事を、学校から下がってきてからしました。
いろいろな大人の真似をしました。
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