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そのころのお弁当の中身ですか? 梅干が入っていれば、上等なんだよ。沢庵(たくわん)は臭いから、持っていかないんだよね。ほかには、味噌が入ってましたね。おにぎりだの、お弁等缶だのを持っていくこともありました。
甘いものは、お金を出さなければ買われないから、そんなに食べられないけれど、少しは食べられたの。戦争当時は、甘いものひとつも無かった時期(とき)が2~3年くらいあったから、私たちは食べたけども、昭和19(1944)年生まれの大きな娘は食べられなくて可哀想だと思ったけどね。その前は甘いものあったよ。
干し柿は年中あったよ。夏んなるとカビが出るから、食べごろはその前までだけど。どこの家でも柿がなるからね。それも玉子柿、こんなちゃっこい(小さい)柿なんだ。今のように大きい柿は植えなかったんだよね。ひとりして育って、ひとりして生った柿なんだよねぇ(笑)。
飲み物は、お茶と麦茶くらいだね。あとサイダーもあったんだよ、お金出せば。今ないんだけど、瓶さ玉が入って、ああ、ラムネだ。あいつが出てきたんだよね。今はないけどね、あんなのはあったよ。お金出せばね。
戦争中は物が無かったから、私の家は農家だから、できたものは皆で分けっこして、買って食べようと思ったことはありません。自分で採った物を少しずつ皆で食べました。分けてね。果物はその時分は、山で木の桃を採ってきたり、いろいろなを植えたりしました。当時は、「何々を食べたい」とかは、思いませんでした。
お母さんは、一生懸命お努めして、子どもたちに食べさせてくれました。干し柿は、そのままでは食べられない渋柿を食べる調理法の工夫だね。皮をむいて干すでしょう? 干して、粉が上がったら、裂いて大根おろしにしたり、さつまいもだって干して干し芋を作ったり、生の柿を潰して粉を入れてかき餅にして食べました。
米を炒って香煎みたいにして食べたこともあります。蕎麦粉に味噌と出汁を入れて、鰹節なんかも入れて練って囲炉裏で丸く焼くんです。家で採った蕎麦だから美味しいの。朝早く起きて、おやつになるように作って、あれも美味しかった。
なんでもやりました。今、買って食べるのは昔のと味が違うね。自分たちで採って、自分たちで手作りです。
後は、サトウキビ、沖縄で売ってるね? ああいうのも、私たちも作りました。あの時分は砂糖もないから、切って煮出してザルにあげて、その汁を煮詰めるんです。1キログラムの水を200グラムくらいまで煮詰めるんです。そうすると甘味がウンと出てくるの。そういうので、お正月にお餅を食べたりしました。皆で少しずつ分けてね。買って食べるということがないからね。
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