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小鯖に40年も50年も住んでて思うのは、私たちも家を流されたったら、やっぱり、ここには住みたくないですよね。最低でも気仙沼。病院のそば。そういうところを選びますよ。いくら子どもが仙台にいるたって、仙台まではとても・・。私たちの水に合わないから。この津波のあとも、やっぱり、ずいぶん多くの方が唐桑からも離れるんでないですかね。
昔のように子どもがあれば必ず、その子どもが跡継ぎしたもんだが、今はそうじゃないから、結局年老いた親が1人暮らしか2人暮らしになるわけだ。だから、まず、実際にその身になんないから、まだここにいるんだが、家が流されたったら、たぶんここにいないとおもいますよ。どうせ暮らすんだったら、お店が近いとか、病気になってもお医者さんに走って行けるとかね。何十年住んでなんでいまさら、って言われるべが、やっぱりねえ。
だからボランティアの人たちは、唐桑にしてみればなんてありがたい、こんな人の嫌がる瓦礫とかゴミとか、一生懸命汗水流して働いてくれるなんて、なんてありがたいんだろう。ほんとに感謝、感謝です。もしこんなことがどっかであったら、唐桑の人たちは進んで行くような人たちがほんとにあるんだろうかって。ないんでないかなあって。ボランティアの若い人たちに「お婆ちゃん、お婆ちゃん」って言われると、「なんとこの孫たちは・・」ってね(笑)。
ほんと、こんな津波なんてね、誰も予想しなかった。
津波のあった日は、お爺さんが気仙沼市立病院に入院してたんで、息子と見舞いに行って。「病院の食堂でお昼食べてんか」「そうしたほうがいいよね」って、お昼食べて、そしてジャスコで買い物して、それで帰って行ったの。
そしたら、安波(あんば)トンネル潜ったところで地震に遭ったんです。すんごく揺れてハンドルとられて大変だったの。とにかく動けなくなるくらい揺れたから、そして、みな信号が消えてしまったし、「あっ! この地震はただの地震で無い、津波が来っから、高台だ!」って私が騒いだんです。
車が前さも繋がるし、後ろもずっと繋がってしまったけれど、なんとか動いてね、そして高台の高校(東稜高校かと思われる)まで上がって行って、今晩の食べるおかず、パンだのいろいろ買ってたから、そんなの食べて、車の中で一晩過ごしたんです。
次の日、「唐桑に帰りたいんであれば、誘導して上げますよ」って方がいたんです。「もう一晩高校の体育館でお世話になるか・・」って言ってたんだが、そういう人が現れたもんで、「どうしても帰りたいな」って思ったんです。飲んでる薬もないし、「お願いします」って、誘導する車とうちの車ともう1台御崎さんのお姉ちゃんと3台繋がって、やっとのことで近所まで来たのね。それでも瓦礫があって家まで来れないから、親類の家で2晩目泊まって。「ごはんまだ食べないで来たの? おにぎり作ってたから」ってごちそうになって、お茶も貰って、「立派な布団でなくたっていいよ、その辺にあった布団でいいよ」って2晩目泊めて貰ったんです。
3日目にようやくここに来た。坂道は上がるに上がられないから、山の方回って、這って上がってきたの。そしたら、コップ1個も倒れてなかった。「もう、ガラスも何もかも落ちてんでねえか」って覚悟して来たけど、何にも壊れてない。あとで見たらお爺さんがこけしのような飾りものを、みんな倒れないように留めてたの。それでも茶碗も何もひとつも倒れてない。ここ、地盤が硬いんですよ。なんか、とんがった石が入り組んでいるところなのね、ここは。
お風呂はどこの家にもありましたね。
まあるいドラム缶のような大きいの、1個半くらいの長さにしてね、丸い筒があって、そこで木なんか焚いてそして沸かしたの。あとは松から下りる松笠(まつぼっくり)ありますよね。あれ拾ってきて。あれは燃すのに最高、良かった。拾うのは、子どもばかりでなく大人もついて行くからね。半造なんて、危険だからね。笹浜の家は10人家族だったから、家族だけでお風呂に入っていました。
小鯖に嫁に来てからね、この辺は、どこの家にも風呂があったけど、それでもね、「もらい湯」はさせてたの。お風呂があっても、燃料の木の蓄えが無かったりすれば、「貰いにいってくるか」っていうわけでみんな寄ってくるわけさ。40年前まで住んでた家は坂の一番下にあったんだけど、周りはみんなね、お風呂に入るように呼びにいったの。お姑さんから「どこそれ、来ないから行って呼んで来い」って呼びに歩かせられたの。井戸は家のそばだから、中のお湯が少なくなれば水を汲みに行って足して。ぬるくなれば、立って行って、風呂の火を燃して。そして、「もうそろそろ、みんなお風呂から上がって家に帰ったから、あんたも入って寝らい(寝なさい)」って言われるわけ。
その後は、電気も無いわ、電話もないわ、水道も無いわ、ろうそく1本で何カ月暮らしたか。水は下の井戸から息子が両方提げて、運んでくれました。流された家の井戸なのね。つるべって言うか、綱つけて、そして汲んだの。何でも無いば不自由だが、やっぱり、水ですよねえ。洗濯もできない。何日か経って、洗濯もの背負って、娘のところにやっとの思いで行って、大変でしたよ。だから、水道来た時、嬉しかったねえ。2カ月以上じゃないかな。
寒かったけど、ここストーブが1台あったの、ちょうどそれでご飯も炊けたの。石油はちょうど運よくポリ缶で6つ運んでもらったばかりだったから。ここで湯を沸かして湯たんぽを入れてもらって。そしてねえ。そんなあれを思い出すとホントに・・。
電気が無いから、凍結庫のものはさんざん溶けてしまって、もったいないけど捨てました。食べ物が無くてね、「あれ~?」と思ったら、避難所から若い人たちに、お米やら缶詰やらいろんなものを運んでもらいました。助かりましたね。
孫たちが心配だからタクシーに乗ってでも来るって言ったそうです。「来られたらおばあちゃん大変だ、水もないし、電気も無い。なんとかして後に来てくれ」って、そう言ったがね。アハハハ。
電話もここは4カ月ぐらいかかったかな、ずうっとむこうの道路沿いの方は何でも早く来たんだって。ここは全滅だからしばし来なかった。
息子が地震のあと、しばらく一緒に暮らして、ずっと付いててくれたったから良かったんです。息子は会社の仕事もいっぱい溜まってたみたいで、「一回行って来る」って。「とても私ひとりで暮らされないなあ、1人でいられねんだったら、息子と一緒に行ってなんぼでも暮らしてみよう」って、ついて行ったんです。そしたら何にもすることないんだもの。座ったらそのまま。「どうやんべ」って。
玄関から出たって誰も知ってる人もないし、声かける人もないし、あと嫁さんと息子は会社に行ってるし、それも耐えられないの。4晩泊まって5日目には、「なんだ、あんた、今朝全然元気ないんだが」って息子に言われて、「家さ帰りたくなったんだ」「来(く)っと、今度は家さ帰りたくなったって。どっちなの」「うーん、やっぱりなんとしても家さ帰りたいな」そして5日目にはここさ来てしまった。やっぱり何十年住み慣れた我が家の暮らしはね・・。
小鯖の丘家は、明治と昭和と2回津波に流されたんだって。そのため、少し高いところに来たんだって。その家も古くなったから解体して建てましょうって、壊したわけだ。そして何日か経って、基礎工事始めたら、一晩のうちに工事してる所に、ダダダダって山が崩れてしまったのね。
もうそこには家なんか建てられないから、お姑さんが「また、下の畑さ(過去に津波で流された場所)建てべな」っていうから「お婆さん、下の畑は絶対反対。2回も流されて、何、下行くって。私は行きません」って。「どこ行くんや」「大工さんと相談します」って頑張ったの。
その頃、山の上はこんな杉とか松の山で、うっそうとしていたの。それを切って、突貫工事みたいにして、そして家建てたのが今の家です。私が46歳の時。昭和46年だから、46歳の時、ここへ来たの。なんでそれを鮮明に覚えてるかって言えば、そこのお姑さんに、「50歳前に家建てれば大丈夫、疲れない、頑張らい、頑張らい(頑張りなさい)」って言われた。
ここさ来るつもりも、何も無かったんだがね。下の畑か、この山しか土地がないから、仕方ないからここへきて。お姑さんが、下の畑さ家建てるって言ったら、背中がゾクゾク~っていったの。なんにも影も形もない、全部後ろから脇から、みんなに見られているようで、嫌だなって思ったね。「お義母さん、絶対反対。あのね、あそこさ、2回も津波に流されて、おら寝坊助で、地震があっても寝てっかもわかんないから、絶対行かねえから」って頑張った。お姑さんも、「ああ、そうか」って。そして、「もう、上さ建てるべえ」と行ったのさ。そしたら今度は津波でそこも崩れたもんだ。
あと砂利とか石は馬が運んでくれた。馬、転んでなあ(笑)・・1回坂のすぐそこで転んで、馬転ぶと1人では起きられないんだってね。綱かけてみんなで「ヨイショ、ヨイショ」って起こして。それを見て、私も昔人(むかしびと)だからね、「馬が転ぶなんて、何か悪いことあるんでねえか」と思って、神様さ行って拝んでもらったんです。そのこと、馬引っ張ってくるおじさんさ話してみたら、「アッハッハハア~」って笑い飛ばされた。「誰、そんなことある(誰にそんな縁起でもないことが起こるもんか)? 拝んでもらったって? 誰、そんなことある? アッハッハッハァ~」ってさんざん笑われた(笑)。
ここ、大工さんが8人も働いたのね。坂の下さ、米屋さんで牛乳売ってたのね。大工さんさ牛乳8本と、おやつも作って持って、上まで上がるのね。ビンの牛乳だから、結構重いですよね。それでも「疲れた」とも「大変だ」とも思わないで、「我が家が出る(出来上がる)んだ~」と思って、喜んで上がったもんだ。
お姑さん、新しい家に喜んでね。その頃、歳は70なんぼくらいになるかな。私が働きに出るわけだ、そしたら、私の留守の間に、自分の着物だのね、持ち物は、自分のものは、ひとりで背負って山の上の家に上げたよ。「これ、背負ってけろや~」なんて言わなかったね。全部自分で上げた。お爺さんが船で出ている間に引っ越したのね、女手だけで。金融機関から借金するのも、自分でやったのさ。学校も出ない、読みも数えも何もわかんないんだけど、わかんないば、聞けば教えるもんね。お爺さんさ、ちゃんと報告はするしね。んで、こうして、そうしてってお爺さんから言われれば「その通りにします」って、用足した。
味噌は、小鯖に嫁に来た頃はずっと家で作ったの。豆を煮てね。親類でカツオ製造する家があって、カツオ煮る窯で豆を煮てもらって、そして手で回して潰して、塩入れて、麹は入れたったかなあ? そうして作ったんです。ここ結んで、藁でこうくるんで、こうぐってそして炉さつるしてね、カビが生える。そのカビがいいんだ。私は笹浜の実家にいる時から見てきたから、わかってんだぁ。味噌は秋に豆がでるから、仕込みは秋でしたっけかね。
家で作らなくなってからは、最近までは気仙沼で作って貰ってたんですね。子どもたちが、「仙台の住民は仙台味噌ってやるのに、なんで唐桑から味噌もって行く。いらない」って誰も食べないから、いまは家でも近所で買って食べるの。生協さんが持ってきてくれるし、お店でどこでも売ってるからね。
お茶も作ってましたしね。囲炉裏に炭をおこしてね。四角な入れものに、何枚も何枚も厚く紙を貼ってね。そこに蒸したお茶の葉を入れて、炉の上で蒸気を飛ばしながら揉んで、カラカラになるまで水分を飛ばして、作ってましたよ。新芽がでたころね。5月かなあ。今はそんなこと、する所どこもないけど。
とにかく、自給自足でしたからね。どこの家でもね、田はあるし畑はあるし、小漁にいって父親とか兄たちは魚獲ってくるしね。ホヤ、アワビ、ウニ、そういうのを食べて育ってね。骨のうるさい魚でも、アワビでも何でも好きだから、「なんぼでも食べろ」って、アワビなどは、周りの固い所を包丁で取って真ん中ばり(だけ)食べました。なんぼ好きでも、2個も3個も食べれば飽きてしまうから、もらって行くからって、むき身をポケットさ、いっぱい入れて持って帰って来たもんだ(笑)。今なら、買えば1個1000円以上するもんね。
梅干をつけるのにね、家のお姑さんが、「梅は、毎年なるもんでないから、今年なったらいっぱい漬けなさい」と。「来年はなんないかもわかんないよ」って。
嫁入りは、昔は仲人さんがついて、親が決めて、「こういう家が嫁に貰いにきた」ということで、「仕方ないな」と思って結婚しました。今なんて、こんなこと、考えられないよ。見たこともない人のところさ、お嫁に来たんだから。結納の品は、仲人さんが結婚前の「大安吉日」に持ってくるわけ。だけど誰かはわからないの。「こんなことってあるの」って思うよね。私たちでも思うもの、「よく、見たことねえ人さ嫁に来たもんだなあ~」ってね。でも兵隊に行って帰って来たっていうから、手足は丈夫なんだべな、って(笑)。
結婚する日に、「お婿さんが白足袋履いてくるんだ」って教えられて。「どんな人だべなあ」っと思って、足元ばり(ばかり)見て、「白足袋はいた人は、あの人かなあ」と、そう思ったの。お婿さんの方は、行列で貰いに来るんだよね。ぞろぞろと並んでな、袴はいたり、羽織着たり、紋付き着たりしてみんなそうして来たのさ。本家がまず先頭でないかな。右もらい、左もらい、カギ持ちって一番末っ子の人が一番下座敷さ、座らせられるとか、あとはもう、順番があるらしいね。いくら、あの、10軒の本家でも親族でも本家が上とか、その次はこの人って順番があるらしいの。
嫁を送るっていうわけでそれなりの順番があってくるんでないかな。本家の佐々木家がついてくるわけ。最初は本家同士で挨拶して、「座敷まわり」って、席を取り持つ人があって、「高砂や~」を歌ってね。「この浦船に帆を上げて~」って、そういう謡をする人が必ずいて、双方の親族を取り持つわけ。杯を持って「あの方からです」とか、「あの方がご返杯です」とかって運んだり、いろいろやったわけさ。
私は高島田に結って、つのかくしをして、そうして小鯖まで歩いて来たのさ。笹浜から。「今日あそこでお嫁に行くっつうから」ってわけで、部落の人がみんな見に来てくれるの。お天気良かったから、良かった(笑)。嫁入りしたのは、昔は旧暦でやったから、旧暦の12月25日でした。
その頃のご飯はお米と麦を混ぜた麦ごはんでした。麦ごはん食べたいねえ。あれで育ったんだものねえ。
そして学校にもって行くお弁当のおかずってば、「今日は何入ってるかなあ」なんて、そんなこと思わないのさ。必ず、味噌。梅干し。そんな程度で卵なんて見たことも無かった。
学校に行く途中に、行政書士さんのお家があってね。そこの家ではね、卵を割った殻を盆栽の上に載せておくんです。って、横目で通って見たの。その頃は「ああ、この家で卵食べてるんだなあ」って思って通ったもんだ。嫁に来たら、この家ではニワトリ飼ったんだって。だからお爺さんが、「ああ、卵なんて見たこともなかった」って私が言うと、「はあ、卵なんて食べたこと無くてここ来たのか。卵なんて他人にあげるくらいあったんだ」って言われました。そんくらい、卵って貴重なものだった。
この辺りは戦争終わるあたりから、何にも食べ物なくてね、こんなに今太ってしまったがね、当時は細くて、おなか周りを日本手ぬぐいで縛れたもんですよ。
食べ物はつくしの里の方から小鯖の海岸まで倉庫があって、そこでお米の配給があったのさ。10人の家族はこのくらい、5人はこのくらいって、お米の通帳(米穀通帳)渡されてね、それを持ってきて、お金と交換です。そしてお米も、トウモロコシも、お砂糖も、何でもかんでも配給されて、食べ物はなくてなくて困ったの。
魚は獲れても、漁協の方で集荷してお金にしたわけ。配給のものを買うためにね。とにかく人が寄れば食べ物のお話だったのね。「家では昆布を拾ってきて、雨にさらして真っ白くして、乾かして臼でついて、こんまく(細かく)してご飯に混ぜて煮る」とか、「大根の葉っぱ食べろよ」、とか「サツマイモの茎を食べる」とか、「イタドリ(すかんぽとも呼ばれ、茎は酸味がある)を食べる」とか。とにかく、食べ物の話しかしなかったのね。そう、大変な時代を超えたの。
昔は、まずお肉なんて食べない。魚だけ。よそ様からメカ(メカジキ)をいただくと、「あ、今夜はライスカレーだ」って。メカでカレーやったの。どっかの船が港に入れば、必ず魚を頂くと。うちの船が入れば、よそ様へあげる。やったり取ったりしたもの。魚は全部自分でおろしましたよ。カツオとか、サンマ、イワシ、なんでもそういうのを加工しに働きに出てたから、だから魚は何でも捌ける。工場に男の方がいっぱいいるの。自分で獲ってきた魚をいっぱい捌くんです。みなさんお茶を入れている間に、「ここから包丁入れるの、こうやって」って、教えられるの。男の方に教えられたんです。
だから、最近になって、お刺身買うようになった時はね、「昔は魚なんて、刺身なんて買って食べたことなかったのになぁ」とね、そう思ったよね。店頭に並んでるお魚は、一味もふた味も味が下りてん(落ちてる)のね。どうしても。獲ってきて、すぐお店に並ぶわけでないから。そういう感じがあります。うんうん。
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