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小学校のころは給食がなくて、お弁当を持っていったのですが、家は田んぼと畑と海があるでしょう。そういう志津川の生活ですから、親は大変だったと思うけれど、子供はあんまりひもじいとか、大変とかいうことはなかったですね。
ただあの、お弁当を温める暖飯器って知っていますか? 下に炭を置いて、段があって、そこでご飯を温めるんですね。そうすると、お漬物が匂っちゃって。一番下はあったまるわけね。そしたら2番目の人が今度は下に行って、交互に温まるようなっていて。アルミのお弁当だから、角が腐食するようなお弁当箱だったんです。
人のお弁当を見るなんて、あまりなかったのですが、おかずなんかないですから。梅干しはいい方で、まずご飯を入れて、味噌を入れてくる人が多かったですね。
その他はたくあんしかなくて、それをみんなご飯に入れてくるから、私たちクラス40人から50人くらいいましたので、匂いがみんなついちゃって。そんな学校生活でしたね。
小学校は伊里前小学校です。私が小学校1年生の時が終戦です。だから、ノートって無かったんですよ。朝の連続テレビ小説「おひさま」、やっていますね? あれと同じ時代です。物が無い時代です。
ノートがないから、石板に蝋石(ろうせき)で書いてね。で、その場で消すわけだから、何も残っていません。小学校3年生くらいまで、そんな感じでした。
お昼も、食べ物がほとんど無い時代なものだから、お弁当なんだけれども、持って来られない人もいて、それで学校を休む人も結構いました。例えば、さつまいもを2本くらい弁当缶に入れて、それがお昼ご飯・・っていう風な。その、さつまいもも、なかなか持って来られない人たちは、学校に来ないで休んだというような、そんな時代でした。お弁当を腕で隠して食べてね。
持って来られない人は「山学校」と言って、家は出るんだけれども学校へは来ない。山を歩いて食べられそうなものを探すんです。飢えてるからね。同級生だけじゃなくて、もう食べるだけで精一杯という時代だったんです。それでも、歌津は比較的真面目だから半分以上は学校に来ていたと思います。クラス全員が揃って出席なんて日はほとんどありませんでしたね。食べ盛りがいる家は、食べ物のやりくりに大変だったと思います。
履物も、その頃は、ズックとか長靴が無いから、雨が降ると裸足で学校へ行くんです。それで、伊里前小学校の池で足をザブザブと洗って教室へ入る。私は、幸いにして裸足で学校へ行ったという経験は無いけれど、遠くから通ってくる人たちは裸足で、それに傘とか合羽も無いから、ケット、毛布ですね、それを頭から被って、あるいは蓑笠、テレビで観たことある? お百姓さんが、昔着ていた藁で編んだ蓑と笠です。そういうのを着て学校へ通っていた人がいた時代です。普段は草履か下駄です。藁で編んでね。藁草履です。子どもが自分で編むということは無かったですね。草履を編むのは、雨の日や夜の仕事でした。
私は学校が近かったんです。家から250メートルくらいでした。
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