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子どもの頃の遊びといえば「木馬(キンマ)」でした。近所に子どもが沢山いたので、先輩の見よう見まねで自分で作って近所で遊んでいました。下駄にカスガイを打って「下駄スケート」もよくやったし、木にロープを結わえつけてブランコをしたりもしました。たくさんいた子どもも、尋常小学校の6年生になる頃には、尋常高等小学校に進学する人はいくらかはいましたが、家のために紡績工場に働きに行かされる子もいました。
私は、学校は、尋常小学校にだけ行って、そのあと東京に奉公に出たの。だから難しい話も、書くこともわかんないの。その頃は小学校のあとに、高等1年と2年があったのね。入んない人も半分くらいあったでしょうね。
東京に出たのは小学校を卒業してすぐでした。昭和12~3(1937~8)年頃だね。それで、東京の四谷区に5年いて、子守の奉公したの。弁護士の旦那さん、奥さん、5人の小さい子ども、書生さんがいる家でした。うちの田舎の兄弟は貧乏だから、みんな自分のことは自分でやってたけど、東京の子どもは、みんな「姉(ねえ)や(お手伝いさんの呼び方)、それも、これも」って他人にやらせっから、大変だったの。
その頃、東京はみんな洋服でした。こっちの宮城県は着物。東北はうんと遅れてたのね。
中途半端に逃げてきたら親に怒られっからさ。逃げて来たかったよ。その5年間、正月も盆も、一度も故郷に寄こさない(帰らせない)んだよ。夏休みになるというと、奉公先の家族が、静岡の熱海だの、伊東温泉だのに行って、家借りて、そんでご飯食べたりしたんです。そういうとこさ行くから、飯炊きや、子守が要るから、奉公人は家さ帰されねえのよ(笑)。奉公先の家中、みんなして行くの。
東京には弁護士と、昼間働いて、夜学のある書生たちが東京で留守番。静岡から伊東までいくのに汽車がなかったんだもの。でバスに揺られて行ったんです。
そのときはね、東京ではガスが引いてあったの。水道も自分んちにあるしね。伊東だの、熱海だのは水道が家の外にあってね、何軒かで使うの。そんでご飯炊くったって、薪(まき)で炊いたのよ。奉公先の子どもたちは喜んだの。毎日海さ行って水泳ぎして、一所懸命遊んでっから、お腹空いてくるでしょ。ご飯炊くでしょ。みんな食べてしまって残らないのよ。そんで、また私たちが食べるのまた炊いて。それもガスでないのよ、薪で炊いてね。おなか空いてくっから辛かった。子どもが着るものをみんな水びたしにしてくるから、洗濯物はいっぱいだし。
東京にいるときより、かえってひどいくらい(笑)。かえって東京よりも便が悪いから。本当にひどいの。布団なんかは借りたのかな。鍋だの釜は持ってったのかな。
でも、うちに帰りたくて、帰りたくてさ。寂しくて泣いたよ。だって、まだちっちゃい子どもなんだもの。5年いて、一ぺんも家に帰れなかったんだよ。今誰も子どもを奉公に出すようなことはしないけれど、その頃は山があれば木を売って、米があれば米売ってお金取るんだけど、何もない人は土方してお金取るしかないわけ。家々で事情が違ってたんだね。
私の13~7歳のころは、ふつうは踊り習ったり遊ぶ時期に、奉公に出てそういうことが無かったから、いいことなんか一つも無かったんだよねぇ。
唐桑尋常小学校では、1クラス40人くらいいましたね。3年生までは男女一緒で、4年生からは裁縫が出たわけ。そのために男女に分かれて授業を受けました。男は裁縫の時間は勉強です。
お裁縫はそのころから好きでした。でも、みなさんがね、「学校さ、やばい(行きましょう)」って誘いに来ると、たまに父が、「今日は田の草取りだから、今日学校ダメだぞ」って。こう言われると、(はぁ、田んぼだの畑だの無い家に生まれたかった)と思ったの。田の草取りは除草機を使ってね、母と姉と私と父と4人でやって。自分では当たり前のことだ、と思い、不思議ではなかったですが、畑も、いっぱいあったからずいぶん働かされました。だからお裁縫が出来る日は、みんなとお話してね。楽しいでしたね。フフ。赤ちゃんの肌着とかそういうのを縫うんです。
中井小学校(分校)には6年生まで通って、天長節とか明治節とか行事の時だけは、唐桑(尋常小学校)に来ていました。高等1年からは唐桑でみんな一緒に勉強しました。
すん~ごく、きかない先生が居てねえ。若い男の先生で、誰かちょっとでも悪いことをするとね、雪の中、みんな足袋を脱がされて、小学校から海岸まで、裸足で走らせられたのね。思い出すね。厳しい先生だったけど、その先生から教わったことは頭に入ってるね。すんごい、おっかない先生だった。クラスの中で1人でもなんかやったもんなら、もう、長くて青い鞭で、バンバン、バンバン叩かれたもんだ。その先生はおっかなかったけど、やっぱり教わったことは覚えててね。不思議なもんですよね。
尋常小学校のあとは15歳で尋常高等小学校2年卒業でしょう。そのあと、青年学校っていうのに入ったんです。高校に行かない人たちだけの学校を青年学校ってね。高校にいく方は優秀な方がまず行ったわけですよね。
青年学校のころはね、たとえば隣では働き手のお父さんが兵隊にいっていない、だが畑はいっぱいある、そういうときはその青年学校の人たちが麦刈りでも、畑つくりでも手伝いに行ったの。増産隊って言ってね。青年学校にも男の生徒は居ないの。
石浜ってとこさね、2人暮らしで、お父さんが兵隊にいって、お母さんが1人で留守番で、畑がいっぱいあると、「今日15人、人手が欲しいんだって」と言われれば、15人で鍬持って行って、並んで、でっかいでっかい畑に入って、そして一斉に働いたもんだ。若い者、なんぼでも働けたのさ。うん。そしておやつをごちそうになるのが嬉しくてねえ(笑)。今ならダイエットとかって食べないで痩せる方法がやってるね、ああ、こんなでっかい「おはぎ」なんか出たもんなら、喜んでごちそうになって、働いて来た。そうやって仕事を割り振りして働きに行ったの。
希望して工場に働きに行った人もいました。私もね、周りでみんなお友だちが行くから、「私も行きたい」って言ったの、親に。そしたら親が言うには、「お前はとっても寝相が悪くて、他のあんちゃんたちに笑われるから出されねえ」って(笑)。やっぱりひとり女が1人だから出したくなかったんでしょうが、そんなこと言われたって(笑)。あんたがたは笑ってけらい(笑ってくださいよ)。アハハハ。
うちの両親が、かなり心配して、こう言ってたのを聞いたの。「男がみんな兵隊に行って戦死して、たったひとりの娘さ、夫を持たせられねえんでねえかな」って。それで私は、「はあ、早く嫁に行かせたいのかなあ」と思ったった。とにかく、戦死したんだもの、男っていう男はね。体の弱い人だけ残って、全部兵隊にとられて、兵隊に行く年齢よりちょっと若い人は軍需工場に取られたんです。男は誰もいないんだもの。だから、親としてはそう思ったんでねえかね。
青年学校は部落部落にあるわけね。畑をいっぱい持ってる家から30坪くらい借りてね、農業の先生をお呼びして、農業を教えられた。私たちは唐桑中学校の下のほうの畑をお借りしてそこにみんな集まったの。1週間に1回とか、そんな毎日でもないので、仕事って言えば家の仕事を主にさせられたのね。例えば春は草むしりとか、サツマイモ植えるとか、麦踏みとか、5月6月は農繁期で学校を休ませられるんだもの。農繁期って丘の方では田植え。こっちの方では麦刈りをするんです。
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