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見習い修行から志津川に戻って以後、いろいろな大工の人たちと関わるようになりました。何年もしないうち、25~30歳くらいの頃だったと思いますが、宮大工の方と関わるようになりました。
上山八幡宮(かみのやまはちまんぐう)や大雄寺(だいおうじ)など、あれだけの地震があったのにビクともしなかったのですが、そこの建築に関わった先生に、一応何年か社寺建築の現場にいさせてもらって、手伝ったことがあります。応援ですね。興味はもちろんありましたからね。
社寺建築でも、普通の部屋を造る大工は重宝がられるんです。宮大工は彫刻とか斗組(とぐみ)とかを作業して、それが終わると中の造作は我々一般建築の大工で十分対応できるんです。
その流れで、私は神棚を作るのが好きなんですよ。宮大工の手伝いに行って神棚を見て、「こういうの、いいな」と思って、そのミニチュア版を造ってみたわけなんです。小さい、細かい細工に自信がありました。どこ行っても「神棚はやらせてくれ」って言う位好きだったんです。手伝いに行っていたところの棟梁に「造らせてほしい」と頼んだら「いいよ、やっても」と言われて造ったのが最初です。現場で10日位、座布団の上に座って作るんです。
神棚は神様の本体を納めるためのお部屋を造るんです。この辺のは巾が6尺(1800㎜)とか9尺(2700㎜)大きいんです。細い垂木をいっぱいかけたり、神社のように斗を小さく拵えたり、大好きな作業でした。家は1軒1軒間取りも違いますから、そのたびに図面も自分で書いて造っていました。
ちっちゃい頃、夜寝るときは、母から毎晩、「巡礼おつる」の話を聞いたもんです。
数えで8つのときから、尋常小4年くらいまで、母と一緒に寝たのね。その毎晩、毎晩、おんなじ話、言わせる(言う)んだね。次の晩もその次の晩も、「巡礼おつる」。言う方も言う方だけど、聞く方も聞く方だ、毎晩毎晩おんなじことをって、今でも笑うね(笑)。母も眠いとも思わないで言ったもんだ。私は子どもだもの、聞いていても途中で、うとうとと眠ってしまう。その話を人にしたら、「そんなに毎晩聞いた話だったら覚えてるだろうから、書け」ってんだ。めったなこと言うもんでない(笑)。もうひとつ「信太の森のキツネ」という話も聞いたんだけど、なんだか忘れたねえ。
「おつる」の話は、女の子どもが「みんなの家ではお母さんが髪を結ってくれるのに、家ではお母さんがいない。お婆ちゃんだけ結ってくれる、それはなんで」って言うんだね。お婆さんが「実はこうなんだ、父が敵(かたき)とりに出掛けた」って言うんだな。そのためにそのおつるが親に会いに行くんだって話なのね。それを自分の子と知らないで、お金を獲ろうとして父親が殺してしまったって言うんだな。「わが心して金をとる・・」とかなんとか、ねえ。よく。言って聞かされたぁ(笑)。まったく毎日、おんなじことを。聞いたもんだか、言うもんだか(笑)。
そのうち、兄のところに子どもが生まれて、長男の甥っこが母に抱っこされて寝るようになったわけだ。だから「あんたはひとりで寝なさい」って、私はそこで離されたわけだ。6歳くらいかな。私にかわって、甥っ子はまた「巡礼おつる」の話を聞かされたわけ(笑)。
阿波藩の藩主、玉木家の若殿が、高尾という傾城(美人)に溺れている(好きになって夢中になっている)のを幸いに、小野田郡兵衛という悪臣がお家横領を企てます。
この騒動のさなか、家老桜井主膳のあずかる玉木家の重宝、国次の刀が何者かに盗まれます。桜井主膳は、元家臣、十郎兵衛に刀を探すように頼みます。十郎兵衛と妻のお弓は、娘のおつるを祖母に預け、大阪へ出て刀を探し始めます。十郎兵衛は名前も「銀十郎」と変え、盗賊の仲間になり質屋などの藏に忍びこみ探すのでした。
ある日、お弓が十郎兵衛の家で針仕事をしていると飛脚が来て「追っ手が追っているので早く逃げろ」と知らせます。この切羽詰まったところに、かわいい巡礼姿の女の子が門口に立ちます。
巡礼の国なまり(方言)が気になり「国はどちら?」と訪ねると、女の子は「国は淡路で、父の名は十郎兵衛、母はお弓と申します。」と答えます。お弓は疑いもないわが娘と知ります。すぐにも母だと名乗り、抱きしめようとしますが、今は役人に追われる盗賊の夫婦、ここで親子だと名乗ればおつるもいっしょに捕らえられるかもしれないと、「国で親の帰りを待ったがよい」とさとします。おつるは、国の悲しい出来事や巡礼中の怖いことなどを訴え「帰りたくない、なにやら母のように思われる。ここに置いて下さい」と頼みます。
お弓は心を鬼にして返すことにします。おつるは泣く泣く遠ざかっていきますが、お弓はのびあがり、見送って、泣き崩れます。しかしあきらめきれず、もしもの時は夫が考えてくれるだろうと後を追うのでした。
入れ違いにおつるを伴って帰ってきたのは十郎兵衛。わが子とは知るはずもなく、おつるが金を持っているのに目をつけ、その金を貸してくれと頼みこむ。しかし、おびえたおつるが声をあげたので慌てて口をふさいだため、おつるは窒息死してしまいます。
おつるを見失い、力無く戻ってきたお弓はこの有様を見て、おつるが捜し求めた両親に会いながら親子の名乗りもされずに追い返され、実の父親に殺されてしまった不幸な娘の身の上を思いやって涙にくれます。
十郎兵衛も我娘を殺してしまったことを知ると、後悔の涙にむせぶのでした。迫る捕手。捕手を追い散らすと、おつるの死骸もろともわが家に火を放ち、夫婦は何処ともなく落ちのびていくのでした。
*人形浄瑠璃「巡礼おつる」のストーリーや写真がこちらのサイト:涙を誘う 人形浄瑠璃 傾城阿波の鳴門 「巡礼歌の段」などで紹介されています。
わたしの母が、この話をあの年でどっから聞いたのかな、っていまさら思います。母は蝦夷狩(えぞかり)っていう同じ唐桑の隣の部の出なの。母の父親は宮大工の棟梁だったって聞きました。お酒が好きだったってね(笑)。だから、この巡礼おつるなんて、なんでわかってたのかなあって、今、つくづく思いますね。
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