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昔は、男の人は高等小学校を卒業するか、青年学校8年まで修了するか、女の人は女学校を出ると先生になる資格がもらえました。女学校を出て先生にならないで家にいる人とか、青年学校を卒業した人達がみんな、夏休みになると、松原に建ってるあずま屋で勉強会をしてくれたんです。朝、朝早く起きて、松原そうじっていってみんなで松原を掃除して、そのあとにその人たちが夏休みの勉強をみてくれたんです。
戦争が始まったのは、私が19歳の頃です。その時はみんな挺身隊っていうのに行ったんです。私たち女性も兵隊みたいに引っ張られて、女学校もです。
私は、引っ張られずに家にいて、防空壕を掘って穴さ隠れたり、山さ隠れたりしました。男の人は行ってしまうから、艦砲射撃が来るまで、夜は、竹槍で「兵隊さ殺せ」とか言われて見張りもしました。
6尺くらいの長い竹をね。戦争中女性はね、どこで兵隊さんが来るかわからないから、「来たらば、この竹槍で兵隊さんを殺せ!」なんてね。
昔は、小学校を6年卒業すると、尋常高等1年、2年とあって、それから女学校です。今の高校です。部落から、同じ学年に約20人にいて6人かな? 進学しました。学校までは、歩いていきます。片道2時間、往復4時間です。今の志津川小学校前までです。
(中略)女学校では、お裁縫とか料理とか家庭科で、縫って染める絞り染めも習いました。編み物も基礎から編み方の種類も、1つ編み、2つ編み、かぎ針もね。洋裁も習いました。自分で裁って、子どもの服もセーターも作りました。染物は、染め粉を買ってきて、白い反物を、絹物でも、模様をつけるのにギューッと絞って、手で縫ってキューっと糸を巻いて、花模様や葉っぱとか、そういうこともやりました。着物の布を裂いて、ずーっと長く裂いて編み物もしました。今みたいな毛糸がなかったからね。かぎ針も棒針編みもやりました。
私たちは、1枚のお母さんの着物をもったいないって、ちゃんと型をとって、羽織1枚から洋服1枚。自分でちゃんとやって学校へ着て歩きました。
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