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戦争に負げたからね、暴力団なんかが、横暴(デタラメ)になってきたべっちゃ。ほんではワガンネ(いけない)ということで、私たちは、こういう時こそ神様への信仰でひとつになることが大事だと思って、私は先頭になって、南部神楽を始めたんです。終戦後、私が20〜22歳ぐらいのときです。そのあたりに南部神楽が始まったの。私は青年団長でしたから、若い人たちに教育みたいなことをしたんです。つまり、自分が教えられたことを伝えたんだね。
私たちのお神楽は、本吉の法印(ほういん。旧修験系の宗教者のこと)神楽とは違うの。うちは南部神楽だから。岩手県が本場。山伏神楽とも言うんだ。
神楽って言っても種類がたくさんあるんですよ。楽器は、10センチくらいの鐘を叩(はた)く人と太鼓(写真)とがあって、大胴太鼓は細いバチを使って横から叩くんだ。着物と面コがあって、そういうのを身に着けて踊るの。笛は鳴らさねぇ。南部神楽は笛使わねぇから。
こないだの津波でも、面からなにがら、道具は流されなかったから、今も全部あるし、今でも頼まれればできます。私が入院して太鼓の演奏会に出られなかったときも、おばあさんが衣装の管理や洗濯をしてくれたんだね。
私は小せえ時は神楽が好きで、ドラム缶やバケツを鳴り物にしてやったんだもん。戦後の何も無い頃だから。若い人たちにはね、お面はね、ほおの木、かぶきの葉で、大きな葉っぱに穴ッコを開けて、口に噛むようにしてやらせたの。
神楽は33番あるんだ。「岩戸(いわと)開き」が始まり。「岩戸開き」(天岩戸伝説が元になっている)というのは、あんたたちも習ったでしょう。
天照大神(あまてらすおおみかみ)がね、天(あま)の岩戸さ隠れて、この世が暗くなった。ほんで、「とってもワガンネ(困る)」となって、娘たちが、岩戸の前で踊ったの。そしたっけ、岩戸の中までその音は聞こえた。天照大神がそんどぎ少しだけ、岩戸を開けた。世の中が少し明るくなったんだと。
その時と思って、力持ちの手力男尊(たぢからおのみこと)が、ガラガラと岩戸を開けた。そしたら、この世がまた明るくなった。そして、娘たちが踊っているうちに、この世が明るくなったという話を、翁(おきな:老人)が出て来て語って聞かせて、「この世で何も起こらないようにすべ(しよう)」とおしめ(注連縄(しめなわ))を作った。
今でもお正月に注連縄作るのはね、悪魔を祓うためです。注連縄をどこの家でも、お正月に飾っぺっちゃ。そういう謂れ(いわれ)を神楽でやるわけです。それが「天岩戸開き」。
天照大神は女(おなご)の神様だからね、だがら女っつうのは強いんだねぇ。長生きすんだ、男より。家でも女が強いから、天照大神だ、ははは。だがら、お金もなんでも女に預けるのが本当さ。「はいはい」ってなるべく、お金を男の方より女の方に持たせれば、身上(しんしょう)が持てるって。男でだめなんだ、使ってしまうから。お金は女(おなご)が持ってたほうがいいんだって。
そのほか「壇ノ浦(だんのうら)」とかもやるんだ。「屋島(やしま)合戦」(源平の戦いの話)なんかはすさまじいんだ。屋島神社ってあるんだ、そこに。水戸黄門のおじさんって人が壇ノ浦の屋島神社を作ったって、見に行ったこともあるんだ。大したもんだ。
こういう神楽のときに歌うのも、話をするのも私1人なんだ。踊る人たちが言うには、1人でないと調子が合わないそうです。話しながら太鼓を叩くんで、息を合わせないといけない。話すと手が動かなくなってしまう、だから難しいんだ。踊るのはまずもって、3人くらいだけど、5人で踊るときもある。神楽33番、一幕、ひとつの演題を全部やるとだいたい、2時間〜4時間掛かんでねえか。
私は踊りが好きなんだ(奥さま曰く、「好きなの、この人は。歌って良し、踊って良し。ヤクザでも、マドロスでもなんでもいいんだ。好きでなければだめ(笑)」)。今は年取ったからあれだけど。
神楽を披露しに、仙台の東北博覧会にも行ったことがあるし、藤崎(百貨店)にも、歌津会(各地にいる歌津出身の人の会)の人たちを呼んでやったんだ。その時は、唐桑(気仙沼市)の「七福神踊り」(小鯖神止まり七福神舞)の人たちも一緒でした。そういえば、博覧会では、ステージの前で見ていた外国の人たちが、「殺陣」を見て逃げ出したこともあったね(笑)。文化の日なんかに、学生に神楽を教えたこともあります。
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