文字サイズ |
3月11日は、税金申告が終わって、片付けをして、我々夫婦と息子と3人で家にいました。地震が来たとき、廊下の壁と壁の間に腕を広げてつかまりました。古い家だから潰れるんじゃないかと思いましたが、補強したから地震では大丈夫でした。物も殆ど落ちなかったのですが、店の酒なんか落ちて割れてしまいました。家はやっぱり補強してあると違うなと思いましたね。
子どもたちは高台の学校に行っていたので、良かったんです。家のすぐ近くに海円寺というお寺があったので。軽乗用車に2人で、まずそこに逃げましたが、地震が収まってすぐに警報が出たので、すぐ上の保育所まで車で登りました。息子はそこから志津川小学校まで逃げたんです。
私は呑気屋だから、とにかく自分の愛車が津波を被っては惜しいと思って、「ここなら絶対大丈夫だな」って思える高台まで持って行って、自宅にトコトコ戻り、記念硬貨だの何だの、アルバム、カメラ、ビデオ、米まで全部2階に運んだんです(笑)。「まだ、津波来ねぇんだな。おかしいなぁ」とは思いましたが、最初、波の高さは6mという放送だったんです。情報は変わっていったけど、こちらは停電だし、携帯も電波が全く駄目で、情報が分かんなくなってしまったんです。それから、誰が叫んだか分からないけど、「来たっ!」というが聞こえました。「それじゃあ逃げましょう」って、トコトコすこし高い場所に登って津波を眺めたんです。
そうしたら、「おお水来たぞ!」と言う間に、道路沿いに水が来て、追われるようにだんだん高いところに逃げてったんです。そして、木の間から、自分のうちが波を被り、潰れ、そしてうちの近く全部が「ビリビリビリビリ」って音を立てて潰れていく様子が見えました。私も本当に、あと3分逃げるのが遅かったら終わりだったんだなあと思いました。
我々は街の中だから海岸の様子は全然分からなかった。家の中で津波が来るのを待ってた人も沢山いるわけです。うちの前には45号線が入っていますが、その奥の役場の方に行ったところの部落は、うちから500メートルぐらいの距離なのに、チリ地震の時、津波が来なかったので、そこの人たちは逃げないでいたんです。津波が来てから騒いでも、余程足の速い人でないと間に合わない。皆、流されていってしまったんです。
逃げる前は、折角集めた趣味のものなどが濡れると勿体無いと思ったから、みんな2階に上げたんです。最初っから津波が40分後に来ます、って言われればね、車にみな積んで逃げたのに、とは思いました。けれど、頭に北海道の奥尻の津波のことがあったんです。津波は震源が近ければ「5、6分で来る」っていうことが。だから「急げ」となったわけです。
その判断が大事。町側は津波が何分後にくるのか、全然発表しなかったんですよ。後から聞いた話だけど、浜の人たちはね、津波の前に水が引いたから、津波が来るまでに30分かかるなどと分かったそうです。娘に聞くと、東京では津波到達時間の発表があったそうです。ラジオなんか持って逃げている人はそんなにいませんでした。逃げる時は必死で、家に2台も3台もあるラジオを持ってく余裕がないんです。その余裕というのはどっから来るかというと、情報なんですよね。
あの日の情報は、「逃げろ、逃げろ」の一点張りでした。もし「到達は何分後」とか、「何を持って逃げろ」とか言われれば持って行ったと思います。地震が終わったか終わらないかの内に慌てて逃げたから、丸裸ですよ。文字通り裸一貫。80年働いて何もなくなってしまったんですから(笑)
最終的には志津川小学校の避難所に皆集まりました。裏が山になっているから山越えをして小学校に集合したんです。そこから、水もなければ食料もない。薬も持ってこなかったので、飲めませんでした。5日間くらい薬がなかったんです。1週間くらい経った頃、眼下のお医者さんに頼んでなんとか薬を出してもらいました。金を払うといったんだけど、「お見舞いだからいらない」って受け取ってもらえませんでした。
1日目はあきらめというか開き直ったって気持ちでしたね。誰も泣かないし、みんな笑ってましたよ。
犬はいましたね。猫はいませんでしたが。
あきらめムードではありましたが、ただあんまり心配はしていませんでした。小学校の校舎にはタンクがあって、水だけはあったから、大事にして飲みました。ただ、寒くて寝られないんです。食料は当日は何もありませんでした。ビスケットをポケットに1つや2つ持っていたような人もいたけど、殆どの人は何もなしです。次の日の11時頃、やっとおにぎりが届きました。
たばこは吸えなかったのですが、2日くらいは吸えなくても大丈夫ということを経験しましたね。みんなで体育館にいたので、余震がずっとあったけど、みんなでいたら怖くないという気持ちでした。でも、全然眠れませんでした。ただ横になるだけです。
「風の中、土に悠々と立つ──銀行マンの見た登米・志津川」須藤衛作さん(仮名)
[宮城県本吉郡南三陸町志津川]昭和7(1932)年生まれ
Please use the navigation to move within this section.