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そして翌年昭和10(1935)年3月20日、奉天、今は瀋陽っていいますけど、そのそばの鉄嶺(てつれい)(=現中華人民共和国遼寧省)というところで、長男として私が生れました。けれど、3歳で哈爾濱と長春の間にある徳恵(とっけい)という町が父の勤務地となり、そこに引っ越してきました。物心付いた時には徳恵に住んでいたので、鉄嶺のことはぜんぜんわからないですね。
そして私は徳恵の小学校に入りました。その頃は日本人が満州を支配していたので、日本人だけの学校であり、日本の教科書と同じものを使って勉強しました。私が入学する前の1年生の教科書は「サイタサイタ サクラガサイタ」で始まりましたが、私たちは「アカイ アカイ アサヒガノボル」で始まる教科書になったんです。日本は神の国、アメリカやイギリスは鬼だと教えられたんです。3年生、4年生の授業では敵を玉砕するんだっていう教育を受けてきたし、学校卒業したら予科練(注※)が有名だったから、予科練に入るんだ、と思っていましたね。
小学校8年(国民学校初等科6年、高等科2年)を終えた僕は、家が貧しいもんですから、満州の南満州鉄道に行きまして、会社の養成施設の「大連鉄道学院」に2年間学びました。そこで1年目は有線電信を学び、2年目は運輸関係、列車に乗るほうを学びました。
卒業して勤務したのは、奉天(ほうてん)と大連(だいれん)の間の「許家屯(きょかとん)」駅でした。駅務員と称し、有線電信の係になったんです。大連と許家屯間は距離にして20キロくらいですかね。学校のあった大連には、配属後もしばしば行きました。大きな町ですよ。
許可屯は、周辺から果物がとれました。また、隣町に熊岳城(ゆうがくじょう)という、安東(あんとん)などとならぶ有名な温泉地がありましたね。熊岳城駅から歩いて10分くらいの、ここの温泉に休みに入るのが楽しみでしたね。
僕は休みになると、許可屯からふたつ先の熊岳城に行き、「馬車(マーチュー)」という、タクシー代わりの馬車に乗ってね、5~10分行くんです。
その温泉には傷痍軍人なんかよく来てましたね。そして砂湯に入ったり温泉場の湯の方に入ったりしてました。
あとね、その方たちから、検閲があるせいか、田舎の実家あての郵便物を「これ出して置いて下さい」と、よく頼まれましたね。
熊岳城の斜め横の方向に、望小山(ぼうしょうざん)という山があって、高さは地上から数えれば50メートルか、70メートルしかないような、なんでもないような饅頭型の山でしたが、伝説の山なんですよ。科挙の試験を受けるために、北京かどこかに勉強に行った息子を思って、母親が毎日のように望小山に登って祈り続け、待ち続けていたという有名な話があるんです。それで息子が何年待ってもね、まだ科挙に合格しないのか、帰らないでね。ついにそこで亡くなったと。
当時の満州の読本や、内地でもね、うんと出版されたはずです。
近所にね、鉄筋コンクリートの2階建ての洋式の「熊岳城ホテル」というのがあったけれど、用事もないから行かなかったですね。温泉に行く時はいつも、満州は寒いから、温まる飲み物を買って飲むんです。それに、コンビニはないけども、日本人が作ったいわば売店のようなものが、熊岳城駅にあったんですよ。そこに、お稲荷さんとのり巻きのね、詰め合わせが、プラスチックと似たような容器に入って売られていました。それを買って行きましたね。その頃が一番楽しかったですね!
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