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この歌津にはね、天保年間(1830〜1843)の津波も来てたの。大きな津波だったから、私たちが住んでいた海岸には、その天保年間の津波の石碑があるの。田束山(たつがねさん)には「波かけ」という名前の場所があります。ここまで波が来たことを示すんだね。
明治29(1896)年の津波(明治三陸津波)のことは、親から直に教えられたの。
その津波ではね、私(おらい)のお爺さんが1人生き残ったの。それはなして(どうして)かというとね、そのお爺さんは、夜のうちに沈めておいた網(「流し」漁という)を、魚がかかるころに櫓をこいで船で捕りにいったの。昔はイワシでもなんでも夜のうちに網を流して置いたの。となりのお爺さんと2人で行ったんだって。
魚を獲って、今度は家の方へ漕いで帰ってきたら、とっても良い物ばかりが流れて来たんで、最初は珍しいから、それを船にみんな積んだんだって。だんだんに漕いで帰って行くと、渚あたりで人の泣く声が聞こえた。「ああ、こりゃ津波が来たんだ!」となって、拾ってきた物を船がら全部投げ捨てて、その人を乗せたんだって。みんな津波で死んでしまって、「流し」に行ったお爺さん、隣のお爺さん1人、うちでも1人生き残ったと、お袋から教えられたの。津波のとき、沖は津波が来たのが分からなかったっていうんだから。
明治三陸津波ではたくさんの人が亡くなったんだねぇ。葬るのに、火葬になったのは最近だから、墓を掘るのにあんまり沢山の人が亡くなったんで、避(よ)け避(よ)け掘ったんでねぇかなあ。
私たちの先祖つうのは侍だという伝説があります。負け戦だか何かで、へんぴな所に逃げできたんでねえの。その侍の鎧も兜も、槍も全部、明治の津波で流されたの。
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