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そんな風に、面白いこともあったけど、戦争が始まったので、一方では怖くもあった。
大東亜戦争の始まる前は、「教育勅語」を聞いてから仕事が始まったんだけど、戦争が始まると、「教育勅語」はやめになりました。その代わりに、偉い人たちがみんな「戦争になったのだから、何かで誰よりも優れた、一番になれ」というような話をするようになった。だから、私は職場で一生懸命、何でもやったよ。でも、大東亜戦争開戦になって、天皇陛下の開戦の詔(みことのり)を聞いて、みんなで涙したこともあったけど、まもなく、東京人絹が閉鎖になってしまったの。私たちは結局そこを辞めて、姉は軍需工場へやられたし、私は故郷の家に帰されました。
姉が19歳のとき、見回り団の班長を務めたんだけど、真面目だったので、私までその影響を受けて、少しは作法が身についていたんでしょう。東京人絹が閉鎖になるときに、社長に「女中に来ないか」という誘いを受けたの。でも、私は女中になるどころではなかった。なんといってもまだ13歳で、家に帰りたくて仕方なかったんだもの。それでその誘いへの返事はしないで、人の言うことに耳を貸さず、家に帰ってしまいました。
この前、小学校6年生の子どもたちと話す機会があったんだけど、その子たちを見て、私が東京人絹に働きに出た13歳ってこんなに小さかったんだなぁと思った。自分もそのときは、家に帰りたいと思うのが当たり前の年だったんだよね。
でも、家には長く居られなくて、今度は石川県の金沢、兼六園のあるところに、勤労奉仕に行かされました。そこでは兵隊さんの軍服を織ったり、雨合羽を作ったりと忙しくて、人手が要るということで。一生懸命働いたけど、戦争が激しくなると、やっぱりそこも閉鎖になってしまって、家に帰ることになりました。15歳ぐらいだったと思う。
家に帰って来たところで、戦時中だったから、男の人は戦争や工場に取られていなくて、家に残された女性は一生懸命戦争に協力しなければ、って言ってたよ。女の人は山に行って、松の根っこを掘って、そこから飛行機の部品に使う油を採るって言ってたんだ。そして家に来て不満を言ってばかりだったな。
そのうちに今度は「みんな、軍隊に協力しなければいけなくなったので、気仙沼の鹿折(ししおり)の缶詰工場に行って応援してください」って動員ですよ。勤労奉仕、つまり無料で仕事をするの。でも、だんだん戦争が激しくなってきて、その缶詰工場は艦砲射撃でやられてしまった。爆撃されたときに私は偶然家にいて無事だったの。
命というものは不思議なものだよ。見にいってみると、爆弾が落ちた場所に、4間(けん:1間=約1.8m)ほどの大きな穴が開いてたんだよ。それはもう、たくさんの爆撃があったんだから。そして働く場所を失って志津川の家にいる間に大東亜戦争は終わったんです。
今この仮設住宅にも泊浜(とまりはま)の人たちがいると思うけど、艦砲射撃で泊崎荘(とまりさきそう)のあたりに爆弾が落ちたりして、事故に遭った人もいたよ。でも、今回の津波のような広い範囲の被害でなく、2、3カ所のことで済んだけどね。
昔は、海苔のことを「ウンクサ」って言ったの。「運の草」であると。「バンジョ」っていう市場にあるようなカゴでいっぱい海苔を採ってね。入れても入れても、いっぱい溜まるんだな。それでうちの父さんが身上を上げたのさ。
だからね、今でも海苔やる人たちを手伝いながらそういう話をしたいと思うときがあるよ。そのくらい、海苔というものはありがたかったんだよ。
でも、大東亜戦争が始まる前は、食べるものに困ったね。それで山の開墾もしたの。どこでも終戦になってみな開墾したけども、父さんは30歳過ぎてから初めて百姓仕事をするようになったんだ。だけど、父さんは何でもできる人だった。今のように機械の力でやれば短時間でささっとできるけど、今から60年も70年も前の話だから、そのときはそんなものはなかったからね。漁業も、農業も、鍬頭(くわがしら)(農作業のリーダー)になって、一生懸命やってた。
私たち小さい子どもも一緒になって、木の根っこを運ぶのを手伝ったり、一生懸命手伝ったんだよ。
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