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銀行では、だいたい、大卒は10年、高卒は14年で係長になります。昔は、次長・課長・係長の順に昇進です。高卒は34歳くらいで係長になり、3~4人くらいの部下がつきます。地域を一通り回って顔つなぎをします。今のように銀行がサバイバルゲームをする時代ではなかったから苦労はあまりありませんでした。いいこともわるいこともあまり起きない。その点は楽だったですね。
係長になっても外回りするんですよ。同じ預金でも、訪問された家にとっては、もらう名刺が平社員と役職とでは気分が違いますよ。だからね、支店長でも次長でもみんな外回りする。いいお客様、大きいお客様が入れば訪問するんです。これが我々の仕事です。都市銀行みたいに部屋で胡坐かいていたんじゃ誰も利用してくれません。これが大きい銀行と地方の小さい銀行の違いです。
昔の地方銀行は、支店長や次長でも便所掃除をしたくらい、小規模でした。小さい店舗だと行員が8~9人くらい。大きい店舗だと14~20人くらいでした。私は案外大きい店舗で、佐沼とか築館など経験しました。志津川も15人くらいでした。みんなで外回りをしないと回らないんです。内勤と外回りの仕事が半々くらいでした。
外回りはおもしろいけど失敗もあります。大きい失敗というのはよそにお客さんを取られるということですね。自分が開拓したお客さんが、他行に取られるのはしゃくだったな。競合は德陽銀行(三徳無尽、1990年普銀転換。徳陽シティ銀行を経て1997年経営破綻)というのがあって、それから信用金庫・信用組合が競合していましたね。我々地方銀行は町の中心しか歩きませんでした。ネームバリューが違いましたから。こういうのは、政治力なんですよ。
「風の中、土に悠々と立つ──銀行マンの見た登米・志津川」須藤衛作さん(仮名)
[宮城県本吉郡南三陸町志津川]昭和7(1932)年生まれ
銀行に勤めたのは、末っ子ということもあります。いくら実家を手伝ったところで、腰ばかり痛くて、家督でなければ1銭にもならないから。朝からネクタイ締めて出掛ける、そちらの方がいいなって(笑)。
私が入った銀行は、入行した頃は、「振興相互銀行」って名前でした。相互銀行となる前は「振興無尽(むじん)会社」と言っていたのです。無尽という制度は、都会にもあって、「頼母子(たのむし)講」とも言いました。無尽会社は各都道府県に3つも4つもありました。
無尽というのは、
1)毎月1万円ずつ出して3人だったら3万円集まったら使えるようになる(「用立て」になるという)。
2)くじを引いてあたった人が一番先に使える。
3)使った人は利息は決めようだが、たとえば10,000円あたり500円にすると、次の月には借りた30,000円と利息の1,500円を足して、31,500円となる。
4)次につかう人は31,500円使う。残りの2人の人はまたくじ引いて、2回目に当たった人は31,500円使えるから1,500円儲かります。
5)3回目は満期。2回目に当たった人がまた利息を2人分1,000円払うから、元本が多くなるわけです。32,500円払う。いったん配当を受けると次回からはくじ引きに参加できず、メンバーは人数×カ月で無尽が一巡するうちに、それぞれ1回ずつ配当金を受け取ることになります。
くじに当たらない人でどうしてもそのお金が必要な人は、金利を上乗せて「どうしても譲ってけろ」って、当たった人から買い取るんです。
これは3人の例ですが、会社になると、50人単位でより高額な金額でやるんです。それを無尽会社が管理し、事業に使ったりしたんです。
無尽会社ってのは、無尽に参加していない人に貸したり預けたりはできません。それで昭和26(1951)年、「相互銀行」になり、預金も預かってよいということになり、「貸出金」というものも出てきました。そのころ私が入社して2年目くらいだったかと思います。これがさらに、昭和64(1989)年、第二地方銀行「仙台銀行」となったんですね。
「風の中、土に悠々と立つ──銀行マンの見た登米・志津川」須藤衛作さん(仮名)
[宮城県本吉郡南三陸町志津川]昭和7(1932)年生まれ
私の最初の仕事は、お客さんの所を回って「日掛け金」を回収することでした。お客さんを覚えるのに150軒くらいの担当を持たされて回らされるんです。入社して2年くらいやりました。最初は佐沼地区で、1年回ると、また別の地域を担当しました。だから、長い人だと10年くらいする人もいます。
昔は、「日掛け」という無利息の勘定があって「私は毎日500円ずつ積みたい」など希望の金額で毎日積み立ててもらい、ある程度1万円、2万円とまとまった金額になると、月掛けや、定期預金、無尽の掛け金に振り替えることもできるというものでした。毎月1回、日掛け金を自分の好きなように使っていいというわけです。
担当地区を回る間には、いろんなお客さんを見て来ましたたよ。だいたい、銀行には朝8時半の出勤で9時ごろに外回りに出発します。開店前の商店には朝早く行きます。そうすると、家の前まで行ってみたら、奥さんがほうきを持ってだんなさんを追いまわしてる(笑)。そういうのに出くわすんです。近所の人たちも「あそこはしょっちゅう喧嘩してっからな。声かけないで静かに通りすぎなさい」って(爆笑)。
そういうのもあれば、だんなさんが洋服の仕立て屋で、おっかさんがバーをやってる家で、朝は寝てるんですよ。ところが、その夫婦は「家は開けとくから、いいから入ってきて」というので、2人して並んで寝ててる布団の間から手を入れて、日掛け金を回収です(笑)。なんで起きないのかね、起きたらいいのに(笑)。
もっと面白いのがね、仙台市内で集金したときの話ですが、飲み屋に朝の集金に行くと、飲み屋のお兄ちゃんとかもそうだけど、こっちは若いでしょ、20代のころだから、パンスケ(夜の商売の女性)どもに部屋に引っ張り込まれそうになる(笑)。だけど、そのあとがおっかないわけ。パンスケの後ろにはヤクザもいるから。
あとは、集金しててお酒なんかも出たんです。町内集金は自転車だから、「ほら飲んでらい(飲みなさい)!」って。そういうのは珍しくありませんでした。またみなさん、お菓子とかね、あとお香子(つけもの)を出してもらったり。それをゆっくり食べてね、休んで(笑)。だから。お客さん1軒の家に1時間くらいいるのが普通だったの。次の家は「おぉぉっ!」って駆け足(爆笑)。
昔の人たちは何やっても、それでも友だち、仲間同士。今みたいに告訴されたり、訴えられたりってないからおおらかでしたね。
私たちの頃は、当時は、今みたいに金余りの時代じゃなく、いくらでも集金して来いという時代でしたし、集金やっててもいろんな話題があって面白かったんですね。
集金というのは、銀行にとっては「安定」なんです。お客さんと親しくなって「よもやま話」ができるようにならなければ、銀行に情報が入らない時代だったのです。例えば、「あそこの家のお爺さんが亡くなったから保険金が入るよ」って、教えてもらえるわけです。今は、人件費の高くつく集金というのがなくなってしまった。お客さんには、全部一斉にメールだの、なんだのになってしまいました。私の退職近くになって携帯端末が入ってきました。機械化され時間管理されて、お客さんとお話もできない時代に変わっていったんです。
銀行に入った当初は、帰宅が夜の9時、10時でした。ここの地域は農家預金っていうのがあって、昼間仕事してから、また夜集金に行くんですよ。そうするとね、帰ってくるのは9時10時になります。農家に行って、農協に入ってるお金を拝み倒して預け直してもらうわけです。
それから、北洋船団と言って、遠洋漁業の船員が7月~8月に帰ってくるので、その預金を予約してあるわけです。昼間だけでは終わらなかったら夜になる。それでも残業代はもらえませんでした。そんなふうで、遊ばなかったし、夜も仕事があって飲み屋さんには行けなかったですし。
「風の中、土に悠々と立つ──銀行マンの見た登米・志津川」須藤衛作さん(仮名)
[宮城県本吉郡南三陸町志津川]昭和7(1932)年生まれ
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