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私の最初の仕事は、お客さんの所を回って「日掛け金」を回収することでした。お客さんを覚えるのに150軒くらいの担当を持たされて回らされるんです。入社して2年くらいやりました。最初は佐沼地区で、1年回ると、また別の地域を担当しました。だから、長い人だと10年くらいする人もいます。
昔は、「日掛け」という無利息の勘定があって「私は毎日500円ずつ積みたい」など希望の金額で毎日積み立ててもらい、ある程度1万円、2万円とまとまった金額になると、月掛けや、定期預金、無尽の掛け金に振り替えることもできるというものでした。毎月1回、日掛け金を自分の好きなように使っていいというわけです。
担当地区を回る間には、いろんなお客さんを見て来ましたたよ。だいたい、銀行には朝8時半の出勤で9時ごろに外回りに出発します。開店前の商店には朝早く行きます。そうすると、家の前まで行ってみたら、奥さんがほうきを持ってだんなさんを追いまわしてる(笑)。そういうのに出くわすんです。近所の人たちも「あそこはしょっちゅう喧嘩してっからな。声かけないで静かに通りすぎなさい」って(爆笑)。
そういうのもあれば、だんなさんが洋服の仕立て屋で、おっかさんがバーをやってる家で、朝は寝てるんですよ。ところが、その夫婦は「家は開けとくから、いいから入ってきて」というので、2人して並んで寝ててる布団の間から手を入れて、日掛け金を回収です(笑)。なんで起きないのかね、起きたらいいのに(笑)。
もっと面白いのがね、仙台市内で集金したときの話ですが、飲み屋に朝の集金に行くと、飲み屋のお兄ちゃんとかもそうだけど、こっちは若いでしょ、20代のころだから、パンスケ(夜の商売の女性)どもに部屋に引っ張り込まれそうになる(笑)。だけど、そのあとがおっかないわけ。パンスケの後ろにはヤクザもいるから。
あとは、集金しててお酒なんかも出たんです。町内集金は自転車だから、「ほら飲んでらい(飲みなさい)!」って。そういうのは珍しくありませんでした。またみなさん、お菓子とかね、あとお香子(つけもの)を出してもらったり。それをゆっくり食べてね、休んで(笑)。だから。お客さん1軒の家に1時間くらいいるのが普通だったの。次の家は「おぉぉっ!」って駆け足(爆笑)。
昔の人たちは何やっても、それでも友だち、仲間同士。今みたいに告訴されたり、訴えられたりってないからおおらかでしたね。
私たちの頃は、当時は、今みたいに金余りの時代じゃなく、いくらでも集金して来いという時代でしたし、集金やっててもいろんな話題があって面白かったんですね。
集金というのは、銀行にとっては「安定」なんです。お客さんと親しくなって「よもやま話」ができるようにならなければ、銀行に情報が入らない時代だったのです。例えば、「あそこの家のお爺さんが亡くなったから保険金が入るよ」って、教えてもらえるわけです。今は、人件費の高くつく集金というのがなくなってしまった。お客さんには、全部一斉にメールだの、なんだのになってしまいました。私の退職近くになって携帯端末が入ってきました。機械化され時間管理されて、お客さんとお話もできない時代に変わっていったんです。
銀行に入った当初は、帰宅が夜の9時、10時でした。ここの地域は農家預金っていうのがあって、昼間仕事してから、また夜集金に行くんですよ。そうするとね、帰ってくるのは9時10時になります。農家に行って、農協に入ってるお金を拝み倒して預け直してもらうわけです。
それから、北洋船団と言って、遠洋漁業の船員が7月~8月に帰ってくるので、その預金を予約してあるわけです。昼間だけでは終わらなかったら夜になる。それでも残業代はもらえませんでした。そんなふうで、遊ばなかったし、夜も仕事があって飲み屋さんには行けなかったですし。
「風の中、土に悠々と立つ──銀行マンの見た登米・志津川」須藤衛作さん(仮名)
[宮城県本吉郡南三陸町志津川]昭和7(1932)年生まれ
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