文字サイズ |
そんな風に、面白いこともあったけど、戦争が始まったので、一方では怖くもあった。
大東亜戦争の始まる前は、「教育勅語」を聞いてから仕事が始まったんだけど、戦争が始まると、「教育勅語」はやめになりました。その代わりに、偉い人たちがみんな「戦争になったのだから、何かで誰よりも優れた、一番になれ」というような話をするようになった。だから、私は職場で一生懸命、何でもやったよ。でも、大東亜戦争開戦になって、天皇陛下の開戦の詔(みことのり)を聞いて、みんなで涙したこともあったけど、まもなく、東京人絹が閉鎖になってしまったの。私たちは結局そこを辞めて、姉は軍需工場へやられたし、私は故郷の家に帰されました。
姉が19歳のとき、見回り団の班長を務めたんだけど、真面目だったので、私までその影響を受けて、少しは作法が身についていたんでしょう。東京人絹が閉鎖になるときに、社長に「女中に来ないか」という誘いを受けたの。でも、私は女中になるどころではなかった。なんといってもまだ13歳で、家に帰りたくて仕方なかったんだもの。それでその誘いへの返事はしないで、人の言うことに耳を貸さず、家に帰ってしまいました。
この前、小学校6年生の子どもたちと話す機会があったんだけど、その子たちを見て、私が東京人絹に働きに出た13歳ってこんなに小さかったんだなぁと思った。自分もそのときは、家に帰りたいと思うのが当たり前の年だったんだよね。
でも、家には長く居られなくて、今度は石川県の金沢、兼六園のあるところに、勤労奉仕に行かされました。そこでは兵隊さんの軍服を織ったり、雨合羽を作ったりと忙しくて、人手が要るということで。一生懸命働いたけど、戦争が激しくなると、やっぱりそこも閉鎖になってしまって、家に帰ることになりました。15歳ぐらいだったと思う。
私が生まれたのは昭和7(1932)年3月16日。もう80歳です。私は、銀行に一番長く勤めていたのだけどもね、百姓から、酒屋から、商売から、いろいろやったんです。何でもやってきたから。何でも聞いてください(笑)。
生まれた家は南方(みなみかた。宮城県登米市東部の穀倉地帯)の百姓でした。今住んでいる佐沼から2キロメートルくらいの所です。南方の小学校に6年、佐沼(宮城県登米市、南方の西北に隣接する)で中学校を4年、高校を2年と、この近くの学校に通ったからね、このあたりのことは全部、わかるわけ。その間に戦争もありましたよ。その間、中学校ではほとんど勉強しないで、田の草取りだの、農家の仕事、つまり農作業をやってきたの。戦時中の学徒動員と同(おんな)じように、学校で勉強しないで、勤労奉仕をするんです。そういうのが中学校の1~2年ごろずっと続きました。中学校2年生の時に終戦を迎えました。
実家の農家は、お袋がやってたんです。この辺りはみんな農家だったんですよ。親父は私が生まれてすぐ死んでしまったので、お袋が働いたんです。
私は5人兄弟の末っ子なんです。一番上は軍隊に入り戦死しました。2番目は学校の先生でしたが、去年亡くなりました。あとの2人の兄は、百姓をしていましたね。
「風の中、土に悠々と立つ──銀行マンの見た登米・志津川」須藤衛作さん(仮名)
[宮城県本吉郡南三陸町志津川]昭和7(1932)年生まれ
Please use the navigation to move within this section.