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昭和30(1955)年、北海道に刈払い植林作業の出稼ぎの話が持ち上がりました。ずっと北の方の中標津町で、前払いで日当450円もらえるということでした。4月から第一陣が入っていましたが、私は6月に行きました。トラックで山の中に連れていかれ、電気のない飯場、ほんとうの小屋に入れられました。そこは天然の温泉が涌いているところでした。曇ってる日はブヨが、天気のいい日はアブがもう顔のあたりから体中につくので大変でした。耐えかねて、来て1週間くらいで帰ってしまった人もいました。辛いけれど、兄弟たちのため、家のためと思い、「俺は必ず、ちゃんとした生活をする家庭を作るんだ」という気持ちでいたので、ほかの家がうらやましいという気持ちはありませんでした。
中学校を卒業してすぐ、山仕事に就きました。親類の小野寺一郎右衛門さんという人が山の巡視員をやっていた関係で、仕事をしたのです。日当180円でした。山で働くには自転車が必要でしたがお金もなくて困っていたところ、佐藤高志さんという方にノーパンクタイヤの古い自転車を2000円で譲ってもらいました。ところがそのタイヤのせいで、平らな所はさーっと走るのですが、その頃は砂利道なので重くて、ほかの仕事仲間についていけないで、大変でした。山では杉の木の下刈りのような仕事をしていました。そうして働きながら、通信教育で東京文化高等学校で高校卒の資格を取りました。
少しでも多く父の助けをしたいと思っていたある日、役場に行ったときに静岡の興津でミカン狩りの募集をしていたので、応募したのです。3食食べさせてくれて、1カ月6000円くれるという触れ込みでした。そうすると1日200円の稼ぎです。資格は18歳以上で、私はまだ17歳でした。けれど、私が先頭に立って、地域の他の人と一緒に応募して、採用通知をもらいました。家族には「こういうわけで、ミカンが腹いっぱい食べられる静岡に行く」と告げ、お餞別をもらってバス乗り場から見送られて出稼ぎに行ったのです。ミカン狩りは季節的に冬のもので、出稼ぎは10月~12月の農閑期ですから、仙台に100人以上の人が集まり、10時間以上かけて上野まで行き、そこから静岡や浜松、そして興津に分散していきました。
結婚して2~3年後に、2番目の弟が出稼ぎに行って、大謀網(だいぼうあみ)漁(沖に仕掛け、魚を囲い込んで出られなくする漁法)で成功して、当時のお金で1500円も稼いできたんです。安いお家が一軒建つほどの金額でした。当時弟は結婚する前で18歳か19歳でないだろうかな。一緒に住んでたんですが、自分が生まれたこの家を改築するのを金銭的に助けてくれたんですね。
1500円を当てた大謀網というのは、岩手県の要谷(ようがい)というところの網元へ弟が出稼ぎに行ってしていたんですね。1回の漁でそれだけ稼いだのでなくて、夏から秋の3カ月くらい働いてのお金だね。主にマグロですね。季節によって冬はタラね。
名足の人と、歌津から弟を含めて2人、出稼ぎに行ったんですね。歌津の1500円を当てたもう1人の人はその後動員されて、空襲で焼夷弾か何かを受けて亡くなったそうです。
友だちから聞いたのですが、1500円を当てたあと、泊浜や高台の方角に田んぼある60あとさきのお爺さんが、うちを通過する時に馬を引っ張りながら、「1500円当たった家はこの家だよ」と言いながら歩いて行ったってことを聞きましたね。
実家は農業。ああ。おめぇたちに言ってもわかんねぇなあ。その頃は機械も何もないから、田を起こすのにも、荷物を積むのにも、馬を使ったのさぁ。農家はどこにも馬がいたの。お父さんは、その馬の、荷物を積む荷鞍の、その中に入れる「タバサミ」(鞍薦(くらこも)というが、この地方では「タバサミ」とも呼んでいた)っていうのを作ってたの。ガバでね。ガバっていうのはね、因幡の白うさぎのガバだよ、♪ガーバにく~るまれ♪って、あの。穂が綿にくるまれとって、綿(わた)みたいになるの。ガバっていうけど、ガマだね。なんとなくわかる? それでね、自分で荷鞍を作って、それを売ってたの。
うちのお父さんは荷鞍のタバサミを作ってお金を取って(現金を稼いで)たけど、その頃、お金取り(労働力を提供して賃金をもらうこと)っていうのはそんなに無かったの。それが、昭和8(1933)年、二十一浜にね、津波が来たんです。そのあと、堤防を拵(こしら)えんのが土方で、それやって金取りが始まったんだって、聞いてたのさ。私はそんときは子どもだから、そんな「金取り」の意味なんか考えなかった。うちのお父さんは、農家やって、農家の仕事が終わったらば、荷鞍のタバサミを拵えに行商に出っから、土方はやんないの。農閑期に何もしない人は、二十一浜の堤防の土方に金取りに行ったね。
農家はね、毎年、荷鞍を左右とも、両方、新調するの。毎年のことだから、農家の家々では、タバサミの材料のガマを刈って、乾かしておいたのを置いておくの。
冬に農作業をしなくなると、お父さんは登米だの横山だのに出て、ずうっと家を空けて出稼ぎです。毎年(まいねん)毎年(まいねん)、ずっと、タバサミを作り作り、一軒ずつ行くんだ。お金もらって、そのお金でどこかに泊まりながら行商するんです。出稼ぎは、柳沢から始まって、大盤峠を越えて、横山(登米市)まで行ったんですよ。自動車が通んない前、昔だからね。雪も降ったそうです。横山にたどり着く頃には、お正月、昔は旧のお正月だから2月になるんですよ。
昭和40(1965)年ごろからは、毎年、東京などに出稼ぎに行くようになりました。娘の生まれた頃です。4月頃からだいたい10月、アワビの開口の頃までいて、開口に間に合うように帰ってくるんです。4月から半年は確かに長いです。6カ月働いて90日失業保険を貰い、終わればまた働きたいってそういう巡りになる。1年の残りは漁業で生活するんです。
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