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小泉は3つ部落あんのさ。『浜(はま)(蔵内、二十一浜)』、『町(まち)』、『在(ざい)』と。それから4月8日には、『在(ざい)』の御薬師(おやぐし)さまのお祭りをしたんだね。
8月の13日は、『町(まち)』の八幡様、普通は8月15日に八幡様のお祭りをするけども、『町(まち)』は、なんだか早めに13日にするので、「早稲(わせ)八幡」というんだね。今は勝手に日曜日にやるけどね。9月15日には『浜(はま)』の御天皇(ごてんのう)山のお祭り。そんなのは覚えてんだよねえ(爆笑)。そんな昔のことはよく覚えてるんだけど、今のは忘れるんだよねえ。本当におかしいね、今のことは忘れてんだから。
小泉の虎舞はうちの子どもたちも太鼓叩いたし、孫もやるから、20年以上前からだねえ。
そして御天王山(ごてんのうさま)の獅子舞を、虎舞の後にやるようになったの。それを見て、ちゃっこい(小さい)サヤ(お孫さんの名前)が泣いて、泣いて。踊りだすというと虎が動くんだ。そうすっと「おっかねえ、おっかねえ」って泣いて泣いて。歌生(うとう)(本吉町歌生)のお祭りの獅子舞は最近出てきたけんども、小泉のお祭りのは昔からずっとあったのかな。そして、子どもたちが太鼓叩きに行ったのね。
平磯の虎舞はとても盛んで、中国だのなんだのにも公演に結構行ってるってね。
私が子どもの頃には虎舞なんかなかったし、獅子舞もなかった。
私が子どもの頃のお祭りは、風船を膨らましてバァーっと鳴ったり、そういう売り物がいっぱい出たの。お金をもらって、なんか売り物がなんでも、買うのが一番嬉しかったの。うんうん。そのお祭りよりも、その買うのが面白かったんだねぇ。
その頃は、子どもは太鼓を叩かねえの。叩きたいとは思わない。叩くのは全部大人だったの。男だけ。笛も吹いて、その笛さあわせて太鼓を叩いたんだね。今はどこでも、子どもが叩くね。
私が東京に奉公に出て、こっちにいないとき、そうすっと昭和12~13(1937~8)年ごろだね、そんとき、ここで踊りなんか教える人は、誰もいなかったの。そしたら、堤防の石垣作る人が、米川(登米市米川)のほうから来て泊まって、ここの学校の子どもたちに踊りを教えたんだって。その踊りを今もやるんだってよ。
じいちゃんの船が出港すると、参詣(さんけい)っていうのをやったの。テープを引きながら、サイレン鳴らして出航したら、奥さん方がその足ですぐに御崎さん(御崎神社)のほうに行くんです。船頭さんの家から、なにかおいしいものを持ってって、神様のなかでごちそうになって、それから、唐桑の神様っていう神様を全部、足で、ぐるーっとお参りに回ったの。私は小さい子どもをおぶって出船の見送りに行くから、少し早めに走って家に帰って、子どもを置いて参詣に行ったもんです。
まず、鮪立(しびたち)っていうところの八幡様を拝んで、そして今度は松圃(まつばたけ)の大日如来さま、それから白山さまへ寄って、御崎さんにいって、今度は中沢っていう、お店に寄って、そこのお店のおばあさんが、うどん作っておくわけ。10人でも15人分でも。そして漬物つけてあって、そこでお茶をごちそうになって、それからあと帰りは早馬さんと、そこの上の方の神様拝んで来るんです。1日で全部回るんです。今のように、タクシー使ったり、自家用で走るんでなく、いろんな話しながら歩いて。それがまた楽しくてね。覚えているのは、まずね、まだ御崎さんを回んないうちに、「早く父ちゃん帰ってこないかな」って(笑)。そんな話したわけよ。奥さん方も若いものね、みんな。テープ引いて、船が港を離れるときには、「必ずこの港に帰って来いよ」と願うわけさ。そして、帰ってきてもらいました。お魚をいっぱいごちそうになって(笑)。牡蠣でなくても美味しかった(笑)。
鮪立の船が解散してから、うちのお爺さんは、今度は静岡の焼津の船に乗ったったのさ。その船主さんが、「船が何日に入港する」って、奥さんたちの汽車の切符、それから宿をとってくれて、呼んでくれて、こっちから焼津まで迎えに行ったの。それが何年も続きました。迎えに行くと、日本平のイチゴ狩りとか、三崎のマリンパークに招待されたり、いろんなところを見物させてもらいました。宿料からなにから、船主さん持ちでね。宿なんかお土産物なんかもう付いてたったね。旦那さんと一緒に行くこともあるけど、船に仕事があれば出られないから、その時は奥さん同士でね。帳場の方がついて、見物させられたのさ。イチゴ狩りは5~6回あったね。みかん狩りもあったね。
機関士の仕事は58〜9まででしたかね。それも近所の同級生が結構早く亡くなったんです、同じ船乗りで、50超えた頃に病気になって亡くなったのね。あんまり長く船に乗っても、台風なんか来れば1回に何十人も亡くなったりするし、早く辞めろ辞めろって私が騒いだのね。「子どもはいないし、2人だけの生活になるんだが、あんたまで災難にあったりしたら、私1人いるようになるから辞めろ辞めろ」って。でも「まだ辞めたくない」って頑張ったんだけどね。
私の方も頑張ったの。そして焼津の船だったから、焼津まで行って船主さんに挨拶してそして帰ってきたんです。船主さんの建てたばっかりの2億の家を見に行ってね。水洗トイレが初めて出たんだって。それで船主さんが奥さんさ「お前先にやれよ」「お父さんあんたが先ですよ」ってそんなやりとりをしたってね(笑)。そこさ「そんなことあるんだ~、どんなんだべ」って2人で見に行ったの。あの船主さんには大事にしてもらいました。今どうしているのかねえ。
それで帰ってきて、小さい船から乗らないかって頼まれたのを、私が「小さい船はダメ」って断った。私は乗せたくなかったのね。やっぱり小さい船だと、この辺だと、何十人も亡くなったんだよね。だからあと、すっかり辞めてもらって、自分が好きなことをやった。道路作って土を運んでその辺さ、石を持ってきたり。
私の住んでる地区は、昔は年に2回、春と秋、今は旧暦の10月19日に地域の祭典日があったんです。しかし、今回のこの震災で、地域の神社の宮司さんが不在になっています。歌津には宮司さんが2人いらっしゃったんです。田束山(たつがねさん)を信仰する宮司さんと、うちの方の八幡様の宮司さんが。私たちは八幡様の氏子なんだけど、そこの宮司さんがいなくなってしまったんですね。
お正月には、神棚に飾る幣束や「きりこ」を、宮司さんがみんな切って氏子に渡すわけです。だから、宮司さんが見つからなかったら今年のお正月はどうすんだろうなって思ったんです。
神職と教職を兼ねている人は多いですよ。お寺のお坊さんは、檀家が多ければそれ専属で生活できるわけです。宮司さんなんて氏子がいてもそれで生活できないでしょ。宮司さんの仕事なんて地鎮祭とお祭りとか、年に何回しかないんだから。これから宮司さんをどうするか、氏子は今悩んでるところなのです。今は他の地区の宮司さんにお願いする方法しかありません。宮司さんになるのは、お寺の和尚さんになるより難しいということでした。
「いや、誰でもできんだ、テープレコーダで音を流して、ダンダン、ダンダンって。烏帽子をかぶってやればいい」と冗談でそんな話もしていますが、本当に宮司を務める人がいなければ、ただあの、お正月のお飾りができないんです。都会と違ってわれわれは海と神様と深いかかわりを持って生活してきたんですから。
氏子も、昔は神社に何度も奉納する機会があったわけですが、今は単なる神社を回っての打ち鳴らし、要するに、神楽です。宮司さんの鳴らす太鼓は神楽の太鼓なんです。私自身、神社ではありませんが、青年団で神楽をやったので、ある程度の知識はあるんです。当時ある地区の郷土芸能を伝承しようということで、若い連中5〜6人を集めて、神楽を習いに行ったんです。そして、青年団で芸能部門で県の文化祭に参加して神楽を披露し、優秀な成績を収めたこともあります。
うちの部落で神社は3つあるんです。八幡神社(はちまんさん)ていうのは、各部落にあるもので、そのほかに白山神社、愛宕神社。祭りの時はお神楽で、その3箇所を回ることになっています。神社は、建てる位置も「田束山から見て南南西になんぼ」とか、角度が決まってるんですね。詳しいことは分かりませんが星回りなどが関係しているのかもしれません。
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