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現地の満州人が日本人の赤ちゃんが欲しくて、いっぱい建物の玄関に来ているんですね。彼らはアワだの高粱(こうりゃん)だのだけど、満足に食べていたのです。そこで小さい子を持つ親たちは、1歳か2歳くらいの子どもたちを現地の満州人にくれたんです。「お乳も出ないし、食べるものもないし、もう自分は明日死ぬかもしれない。自分が死んでもせめてこの子どもだけは・・」という思いです。満州人はもらった子をとても大切にしてくれました。満足に食べさせて、「ほら、このように元気だよ」と、子どもを抱いて毎日見せに連れてきたんです。その後、帰国をあきらめていた親たちが帰国して、その結果、その子どもたちがいわゆる「中国残留日本人孤児(残留孤児)」になったのです。
一方で、「一家で帰国することができない」と悲観して、どこからかダイナマイトを持ってきて、一家全員を帯で締めて、バーンと自爆して死んだ人たちもいました。
戦後、私の地元の小学校である先生の講演があった時、その先生が「子どもを置いてきた親の気持ちがわからない」と言ったことがありました。私はそれに反論したい。親が「あす死ぬかもしれない、せめて、この子だけは」と思う心情は、あの場にいなければちょっとわからないものだと思うのです。仕方がなかったと思うのです。でも子どもを捨てるというと日本では非難を受けるかもしれない。だから誰にも言えなくて、「子どもは死んだ」と言って帰ってきたのでしょう。だから、たとえ残留孤児の新聞や報道で、「私はあの子の親だな、あの子が私の子だな」と思っても、名乗りを上げられない人がいっぱいいたと思うんです。
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