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平成6~7(1994~5)年頃、生活が安定してきた頃から、登米市の日本語講座に関わるようになりました。東和町には、残留孤児のお世話をする人の紹介などで、中国からきたお嫁さんがいました。日本語がわからないのでは大変だと思い、何か自分も世の中にお返しできたらという気持ちで始めました。最初は受講するお嫁さんも3~4人でした。
私は農業委員をしていた頃に、委員10人ほどと8日間かけて中国に視察に行ったことがありました。そのときは大連、上海、昆明、桂林、北京と回ったのですが、昆明で少数民族のサニー族の学校を訪問したり、上海の大農場での水耕栽培を見たりました。その頃、日本のタキイ種苗など大企業が中国に行って農業の指導をして、日本の技術をどんどん移転していました。
その旅行の企画をしていた会社の社長と友だちになっていたのですが、日本語学校のことを知ると、「日本語教室をするなら、うちの社員を講師として派遣しますよ」と言ってくれたのです。そして盛岡から講師の女性に来ていただいて毎週日曜日、1年間日本語教室を続けました。私は毎週日曜日、東和町の公民館のカギを開けに行き、それから日本語教室をしたのです。最初は3~4人だった受講生も、5人になり、10人になり、15人になる頃には、中田町、迫町など少し離れた地区の方も来られていました。東和町では生涯教育課が担当になり、日本語講座は現在も続いています。
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