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酒の肴は、毎日のことだから、それこそ刺身を作ったり、父親はイワシの頭を取って酢に漬けたりして、「うまい」と言って食べてた。それからドンコを生で叩いて、ワタを入れて、タマネギを入れて味噌であえるのが本当に美味しいの。
ご飯なんか食べずにそればっかり食べたくらいだったよ。私たちは「生ものは嫌いだからいらない!」って言ってたけど、父親が「頭を叩かれてもうまいから、食べてみな」って言うから食べてみたら、それが本当に美味しかった。それ以来、「ドンコのたたきってこんなに美味しいなのか」って、食べるようになりました。活きの良いドンコを食べたら、あなたたちだって喜ぶと思うよ。だって、獲れたてを、すぐたたいて食べるんだもの。
ドンコといえば、志津川の奥の貞任(さだとう)山のほうに米広(こめひろ)っていう集落があるんだけど、この地にいた安倍貞任(あべさだとう)という武将が敵に攻められたとき、山の上から米を滝のように流して敵を欺いた、というウソか本当かわからない言い伝えがあるところなの。
今いる仮設住宅のすぐ裏に住んでいる人が、米広から漁師のところにお嫁に来たっていう人でね、うちの父親に魚を食べさせてもらってとても美味しかったと言ってた。
清水浜(しずはま:南三陸町)の方では、炉で大きな鍋を火にかけて、おつゆでも何でも、ドンコだの魚だの入れて炊いて、みんなでお迎えするのさ。山の方から来た人だからめずらしかったんでしょ、それがすごく美味しかったって。よくよく話を聞いてみたら、一度うちに来たことのある米広の人の娘さんだったんで、びっくりしたよ。
うちはごく普通の家庭ですね(笑)。親に怒られるのはしょっちゅうでした。
半農半漁だから、米、麦、豆を作って、差網や延縄で、アイナメ、ドンコ、イカ、タラなどの魚も獲ってたわけです。当時は近隣に市場も、冷蔵庫もない時代です。志津川には市場がありましたが、バスを乗り継がないと行けない場所で、そんなことをしていたら魚が腐ってしまう。傍にある魚屋に売るんです。いくら持って行っても安くてね。お米の買えない時代でした。魚屋さんもその日のうちに売ってしまうということです。魚を売ったお金は生活費になりました。PTAなど、なにかと現金が必要だったのです。
小学校の5~6年から家の手伝いをさせられていましたよ。私は実は、小学校3年生の時に耕運機を操縦していたんです。天然ワカメのほかに、カジメという海藻があって、それにも開口があるんです。その日には、船でうちのじいさんと親父が海に採りに行くんですが、大量に採れるので、一回満船になったら、一度陸に揚げにくるんです。ボーンと置いて、また漁にでるわけ。
陸にいる私たちは、大量のカジメを干し場に持ってかなきゃならない。普通はリヤカーで持っていくんだけど、うちには耕運機があったらからそれ回していったんです。ばあさんと私が、船から下ろしたカジメを耕運機で干し場まで積んで、行ったり来たりしたわけです。
駐在さんに見つかって怒られましたけど(笑)。それでも昔の駐在さんって言うのは今みたいには怒んないですからね。子どもに耕運機って、させる方もさせる方ですが(笑)、私はそういうのが好きでしたね。そんな風に家のことをいろいろと手伝ったりしていましたね。
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