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戦後、一番上の兄貴が中国で捕虜になり、抑留されてソ連にいました。それで日本に帰って来なくて、すぐ上の兄と私と2人で実家の農家を守ったわけです。今みたいに機械でなく、昔の農家の仕事っていうのは全部、手足を使ってやるわけだから、とにかく大変でした。だいたいね、早朝から夕方4時頃ようやく農作業が終わるんですからね。
年間の農作業は、旧正月まで終われば早いほうで、旧正月までは忙しいんです。田植えまでは農閑期とは言うけれど、その間に米俵を編まなくちゃいけなかったんです。昔は米俵も政府の買い上げだったから、農家の収入になったんです。
俵は藁で編みます。ムシロと同じように長く編んで、最後にくるっと丸めて縫いつけて作ります。米を無理無理いれると米が漏れる「二本縄(単式)」の作り方ではなく、「三本縄」の複式では絶対すきまが開かないので、米が漏れ出ないのです。だから終戦後、複式の編み方が流行りました。
米俵の代金は、「包装代」として、俵と縄で1俵いくらの単価で国が買いあげてくれていました。ひとりのノルマが1日10俵、その価格が1万円です。米俵は、50キロの米を入れるものを、5.5キロの重さで編まなくちゃいけないんです。あとで農林水産省の食糧庁でちゃんと検査されて、5.5キロ以上重いとはじかれてしまいます。それをうちでは全部で700俵ぐらい作るですよ。だから作男(さくおとこ)という人の手を借りるんです。
作男というのは、家で年間契約で働いてる男の人で、近所から通いで来る人もいれば、うちに寝泊まりして飯から生活費まで預ける人もあるし、いろいろでした。当時の人件費は1人当たり、米10石(こく)。10石っていうのは米25俵。今の金にすると、掛けることの、1俵13,300円だから、要は、安いものですよ(年間で332,500円)。そのかわり飯も食わせてもらい、小遣いも貰うんです。
そういう作男という人が、大家さんとか、庄屋さんに行って働いたんですね。うちにはそういう人を3、4人雇っていました。米俵約700俵のうち、家で使うのは500~600俵ぐらい、あとはよその分もやったんです。それが農閑期一番収入になりました。
今は反対に紙袋を買わされるんですよ。1袋70円でね。藁も、青いうちに無理やり機械で脱穀するようになってからは藁の先が無くなり、米俵にはほとんど使えない状態なので、田に散らばった藁を機械で集めて、ビニールに詰めて達磨のような形にして固めて、発酵させて、これが牛のえさになるんです。
震災後は藁が放射能で汚染されているから食べさせてはいけないことになっています。岩手県の兄貴の行ったところも、汚染されているので牛に食べさせるのは禁止で、保管されているんです。その他にも藁には使い道があって、たとえば畳表(たたみおもて)には、短くても大切に扱い、干すことでうまく使えます。だから今でも、藁は無駄にはなっていません。
今は、安い米が海外から入ってきて、最盛期から比べから、もう4割くらい価格が下がっています。現在の農家の人たちの収入は、政府は買わず、農協経由で業者に売られることで成り立っています。30キロ6500円の価格がついていますが、農協に米を納品しても、その価格の全額が農家に入らないんです。
手数料を集荷した農協に取られますし、外来種のカメムシが稲を食べたあとの黒い点がついたお米は色彩選別機にかけて除去するけど、その手数料がまた500円取られるんです。そうすっと手取り5500円ぐらいになってしまいますね。
さらに、支払いも全額一括ではないんです。今年、仮払いとして5000円もらえます。残りは、業者に販売して結果で高く売れれば差額が戻ってきますが、安ければそのまま何ももらえないで終わってしまうんです。だから経営の先が読めないので、生活にならないんです。
「風の中、土に悠々と立つ──銀行マンの見た登米・志津川」須藤衛作さん(仮名)
[宮城県本吉郡南三陸町志津川]昭和7(1932)年生まれ
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