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徳恵は冬になると零下20度、30度になります。私は小さい時から本当に体が弱くて、病気ばかりしていたのですが、5歳になったときに、父からスケートを教えてもらうようになりました。冬になると小学校の校庭に夜のうちにパーッと水撒いておくと、もう、一晩でスケートリンクができる。電気をつけて、毎晩、父に連れられて、スケートをしたことを覚えてますね(笑)。贅沢なことでした。そのおかげで、1年生から4年生まで、校内のスピードスケートの大会では負けたことがなかった。ずっと一番だったんです。そのことを孫にも言ってきかせたりするんですよ(笑)。
その後、父が助役をしていたために転勤、転勤で、4年生になったときに綏化(すいか)という町に引っ越しました。綏化では満鉄の社宅に住んでいました。赤いレンガの平屋建てで、2軒が一棟になっている建物が並んでいました。間取りはだいたい覚えています。
石炭を焚くと、中央の丸いペチカが家全体を暖め、冬でも裸で過ごせるほどでした。石炭ではお風呂も沸かせました。台所の横の畳の部屋には、棚とその上にラジオがありました。南側が庭のようになっていて、夏は洗濯物を干したりしましたが冬は室内干しです。ドアは3重に、窓は2重になっていました。
私は昭和32(1957)年10月28日、伊里前に生まれました。姉と妹が2人います。
実家は農家でした。父は農業の傍ら、海産物の行商をしていました。自分で獲るのでなく、仕入れて売るんです。農業の手伝いをさせられたこともあったけど、興味がなかったし、自分から進んではやらなかったな。
海が目の前にあるから、小さい時から海にはよく入っていて、ウニやアワビを獲ってました。
子どもの頃の遊びは、田んぼで野球やったり、昔はこの辺も寒かったから、田んぼに氷が張ったところでスケートしたり。
中学では体育の時間が2時間あると、冬は田んぼでスケート、春になれば山菜採りです。秋だってキノコ採りとかね。それだけのんびりしてたんだよね、うん。その頃の同級生とは、同窓会は40歳の時に1回やったくらいだけど、仮設住宅に結構いるみたいで、逆に今のほうがよく会うね。
中学では野球部に入ってました。震災後、息子がグローブとボール持ってきたんだけれども、息子はバシッとくるボールを投げるけど、私はゆるいボールしか投げられなかったですね。
私たちの頃はみんな男子は坊主が当たり前だったんですよ。野球部だろうが何部だろうが、関係なしで、全員坊主ですよ。
私が中学校に入った頃が、ジャージが出回り始めたときだったと思います。それまでは白いトレーニングズボンだったもの。今はジャージがポピュラーだけども、昔は町に行っても売ってなかったから、わざわざ遠くまで出かけて買ったんです。でもデザインが今みたいに華やかじゃなかった。草緑の上下1色で何もラインの入ってない、ファスナーもついてない、農作業するおばちゃんが着るような服だなと思いましたね。
私が子どもの頃は、今より雪が多かったので、ちょっとした坂なんかは、ソリを使って滑っていましたね。それから、もっと面白い遊びはこうです。田んぼに水が張っていると、寒さも厳しかったから、氷が張るわけです。そこをスケートするんです。今のようなスケートじゃないんですよ。走るの(笑)。
スケートって言っても、昔はね、スケート靴を持ってる人なんてよほどの財閥ですよ。それでね、私たちは長靴に足駄(下駄に似ているが下駄より歯の高さが高く、鼻緒が前寄りにつけられ、
引きずるように履くのではねが上がらなかった)を組み合わせてやったんです。
まず、足駄(あしだ)っていうのはね、底が下駄と違って丸くなってるんです。この丸くなったところに、スケートの刃が入るわけです。鎹(かすがい)ってあるでしょ。「子は鎹」の。それをここにブツ(打つ)わけです。長靴に下駄の緒を結わえてくっつけます。下が鎹だから、溝もなにもないんです(笑)。
だから足で踏ん張るわけにはいかないわけで、スキーみたいに、杖もつくんです。杖は竹に古釘の細い釘を刺して作りました。
子どもは作り方は自然と覚えるもんです。みな自分で考えて自分で作り出すんですよ。簡単だから。そんな風にちびた足駄の歯を抜いては作り、凍った田んぼや池に行ってはスケートするんです。面白い遊びでしたよ。
中には排水されて水のない田もあったんですよ、そこをスケートしたさに、「凍らすべ」って、自分たちでわざと掘をせき止めて水を入れて。怒られるわね(笑)。
スキーなんかも、竹を割って、火であぶって曲げた竹スキーってやつを、子どもたちはみな、自分で作りました。竹馬だって全部自分で作る。なにせ売ってないから! 竹馬はね、誰でも作れるんです。
昔はコマも作りましたが、わりあい簡単なんですよ、あれは。材料は「いなご」というクリの木で、稲を乾かすときにかける「ほんにょ」に使う木ですが、それを切って作ります。ただ器用でないとね。学校でも本当は作らせればいいと思うんですが、怪我させるのを怖がって作らせませんね。私たちは、小刀やノコギリやナタでもなんでも、平気で使っていました。
夏の遊びもいろいろですよ。旧迫川(はさまがわ)で水遊びです。今みたいに綺麗な川ではありませんでしたし、学校の生徒1クラスの30人も40人もの生徒がいると、砂だらけ、泥だらけになってるのね(笑)。今は汚染物質だなんだって言って泳げないけど、当時は各浜にみな海水浴場があったんです。志津川あたりでは、荒島(ありしま)だの、防波堤の外で泳いだものです。昔の人たちは、少々のごみなんか、なんとも思わないんです。川だって泥水でもいいんだから。そのぶん、みんな丈夫でした。
今はなんでも売ってるから、買ってくれば用が足せるけれど、昔は遊びの道具は、こんな風に自分たちで作ったんです。
戦争当時は、男の人手が足らないっていうんで、子どもたちから女の人たちまで、「なければないで、なんとかする」、みんなこういう自給自足を日常的にやってきたわけです。だから私たちはいろいろ災害があっても強いんです。
「風の中、土に悠々と立つ──銀行マンの見た登米・志津川」須藤衛作さん(仮名)
[宮城県本吉郡南三陸町志津川]昭和7(1932)年生まれ
冬といえば、田んぼに水を張って凍らせて、スケートをしました。田んぼに水を張るのは自分たちでします。当時の子どもは生活に慣れていますから、そういうことも自分たちでしましたね。氷は一晩で全部は無理だけど、しっかり凍ると丁度良いスケートリンクになるんです。今のようにスケート靴なんて無いから、下駄のようにして、歯をつけて、そういう風なのを作って遊びました。
もちろん自分で作るんです。金具がなかったりすれば、釘、太い柱なんかを留める柱と柱を打ちつけるような鎹(かすがい)、そういう金具を利用して作って、自分で磨いてね。転ぶと危ないから、戦時中の防空頭巾を被ったりしました。
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