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養殖といえば、牡蠣の養殖で志津川は有名ですが、あれは大きな処理場が必要なので、私たち細浦ではできません。その地域、地域で、向き不向きがあるので、南三陸町だからとか、志津川だからと言って、皆が同じことをしているのではありません。
志津川というところは、日本で最初に銀鮭の養殖をやったところなんです。銀鮭養殖発祥の地です。その時に、一番最初に養殖に成功したのが、もう亡くなりましたが遠藤昭吾という方です。私たちも銀鮭の養殖はやりました。それに、私は62歳から18年間6期、漁業組合の理事を務めたので一切合切がわかります。80歳まで理事をやりました。銀鮭の養殖が始まったのは、昭和52年だと思います。
銀鮭が良い時は、漁協も黒字だったんです。最初は、1キログラムあたり千円台で取り引きされたんです。値段が良かったの。養殖をする人が少なかったから珍しかったんだね。北洋で獲れる銀鮭が志津川で獲れるんだもの。最初は稚魚も一定の価格でした。
銀鮭というのは、最初は山で、海で育てるんじゃないんです。100グラム前後になった時、10月頃持ってきて淡水で育ったものを海水に慣らします。大体3日くらいかかります。そうして、今度は海の生簀に入れて、餌を与えます。その頃は、餌も安かったんです。
皆が養殖をやるようになって、稚魚も高くなり、餌もバカにならない・・・、そのうち鮭の値段が下がってきて、割が合わなくなってきて、結局は事業として成り立たなくなってきた。成り立たないだけなら良いんだけど、大きな負債を抱える人が出てきたの。経営は個人だから、あくまでもね。結局は何千万円も負債を抱える人が出てきたの。施設にも、稚魚にも、餌にも、経費がかかるでしょう? それで、保険制度というのができたわけです。漁協ではなくて、もっと大きな保険会社が募集する水産関係の保険に入るようになったんです。
若いときは、今のように炬燵もないし、ストーブもないんだ、どこのうちにも。お天道様が当たらなくても着るものいっぱい重ねて着て冬は過ごしたし、あとは暖かくなれば働きに出たわけね。ずいぶん働きましたね。
魚の加工場は働く場所同じだったけど、季節で魚が変わっていくから、先輩について教わってね。働いたわけね。夏はカツオ。秋はサンマね。あとはその間にはいろいろあったのね。ワカメとかね。あとは海岸伝いにずうっとアサリが獲れたし、カキや、どっか海苔を採ってきて食べたり。
車のある人たちはみんな舞根の方までカキを獲りに行ったんだが、私はこの辺でアサリを獲ったんです。塩水までペットボトルさ入れて、この塩水で一晩砂ふかせて食べるんだぞ、なんて言って、アサリと一緒に塩水まで持たせたりしたもんだ。その塩水で、アサリが見事につの出すの。
真冬はね、縫い物とかね。お正月の準備はそれぞれその家その家によって家風があるからね。教わって男の人はおかずにするとか、女の人はおせちね。いまだら何万出せば高価なのを買えますよね。それをなに、ここはアワビもあれば、ね、タコもあればね、なんでも魚はあるし。そして食べたもんです。
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