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子どもの頃の遊びといえば「木馬(キンマ)」でした。近所に子どもが沢山いたので、先輩の見よう見まねで自分で作って近所で遊んでいました。下駄にカスガイを打って「下駄スケート」もよくやったし、木にロープを結わえつけてブランコをしたりもしました。たくさんいた子どもも、尋常小学校の6年生になる頃には、尋常高等小学校に進学する人はいくらかはいましたが、家のために紡績工場に働きに行かされる子もいました。
昭和1年(1938)年尋常高等小学校卒業後、北海道に渡り、室蘭の夜間の養成校で旋盤工技術を4年間学びました。昼間は父の弟、つまり、おじが所長をしていた関係で、日本製鋼に入りました。父の弟が北海道の相川町に婿入りしていたのです。ちなみに、おじの息子は陸軍中将まで昇進し乃木将軍に自筆のものをもらったというくらい、軍で出世した人だったそうです。
しかし卒業の半年後(1943年)に体調を崩してしまい、宮城の実家に戻りました。そこから3カ月しかたたないうちに、今度は戦時徴用で60人ほどの仲間と共に東京・板橋の造幣局に「徴用工」として送られました。造幣局は軍需工場になってしまっており、私はプレス機械で弾丸を作る仕事をしていました。住んでいるところは練馬だったのですが、豚小屋がそばにあったり、タヌキが出るような田舎で、道に迷ってぐるぐる歩き回ったことを思い出します。
その後、半年でできたばかりの仙台の軍需工場(正式名称・東京第一陸軍造兵廠仙台製造所、1941年に仙台市苦竹に新設された)に移動になり、昼間は高射砲の弾丸を作りながら夜間は宮城野青年学校に通う生活をしていました。
(「苦竹(にがたけ)」に軍需工場があった-戦時下の生徒たち
—仙台三高新聞部文化祭発表資料より)
勤務体制が11時間拘束の昼勤・夜勤2交替制。
技師、養成工、徴用工、女子挺身隊、学徒動員による生徒・学生たちがおり、魚屋をはじめ八百屋、芸者など様々な職業の出身者がいた。工場構内に宿舎と寮が完備されていた。
●軍需工場
敷地はコンクリート製の塀に囲まれていた。北側と南側には通用門があって、守衛によってボディチェックがおこなわれていた。この工場では、主に、20ミリと12・7ミリの航空機関砲の弾丸を作っていた。この工場は第1から第4工場まであり、その他に養成所(教育工場)や木工場、本部、病院、宿舎、所長宿舎、貯水槽、事務所、大食堂、石炭庫などがあった。
第1工場:機関砲弾の弾体の製造
第2工場:機関砲弾の薬莢づくり
第3工場:機関砲弾への火薬装填作業
第4工場:機関砲弾の信管工場
教育工場:養成工としての訓練を受ける所
木工場 :防火用の柄杓作りなど
工具工場:制作工具を作る所
また、構内には、できた製品を輸送するために、鉄道の引込み線があった。2本の引込み線は陸前原町駅まで続いており、そこから仙石線を経由して空軍へ運ばれたという。 熟練工のような技術と精密さを要求される作業を、それも大正15年製などという古い旋盤機械を使って、ほとんど素人が行っていたため品質は良くなかった。終戦直後、進駐軍がこれら造兵廠の不良品や日本の兵器、建物などを取り壊したり、焼却したりして、今の宮城野原総合運動場の所に、直径およそ100mの大きな穴を掘って埋める作業をした。
唐桑尋常小学校では、1クラス40人くらいいましたね。3年生までは男女一緒で、4年生からは裁縫が出たわけ。そのために男女に分かれて授業を受けました。男は裁縫の時間は勉強です。
お裁縫はそのころから好きでした。でも、みなさんがね、「学校さ、やばい(行きましょう)」って誘いに来ると、たまに父が、「今日は田の草取りだから、今日学校ダメだぞ」って。こう言われると、(はぁ、田んぼだの畑だの無い家に生まれたかった)と思ったの。田の草取りは除草機を使ってね、母と姉と私と父と4人でやって。自分では当たり前のことだ、と思い、不思議ではなかったですが、畑も、いっぱいあったからずいぶん働かされました。だからお裁縫が出来る日は、みんなとお話してね。楽しいでしたね。フフ。赤ちゃんの肌着とかそういうのを縫うんです。
中井小学校(分校)には6年生まで通って、天長節とか明治節とか行事の時だけは、唐桑(尋常小学校)に来ていました。高等1年からは唐桑でみんな一緒に勉強しました。
すん~ごく、きかない先生が居てねえ。若い男の先生で、誰かちょっとでも悪いことをするとね、雪の中、みんな足袋を脱がされて、小学校から海岸まで、裸足で走らせられたのね。思い出すね。厳しい先生だったけど、その先生から教わったことは頭に入ってるね。すんごい、おっかない先生だった。クラスの中で1人でもなんかやったもんなら、もう、長くて青い鞭で、バンバン、バンバン叩かれたもんだ。その先生はおっかなかったけど、やっぱり教わったことは覚えててね。不思議なもんですよね。
尋常小学校のあとは15歳で尋常高等小学校2年卒業でしょう。そのあと、青年学校っていうのに入ったんです。高校に行かない人たちだけの学校を青年学校ってね。高校にいく方は優秀な方がまず行ったわけですよね。
青年学校のころはね、たとえば隣では働き手のお父さんが兵隊にいっていない、だが畑はいっぱいある、そういうときはその青年学校の人たちが麦刈りでも、畑つくりでも手伝いに行ったの。増産隊って言ってね。青年学校にも男の生徒は居ないの。
石浜ってとこさね、2人暮らしで、お父さんが兵隊にいって、お母さんが1人で留守番で、畑がいっぱいあると、「今日15人、人手が欲しいんだって」と言われれば、15人で鍬持って行って、並んで、でっかいでっかい畑に入って、そして一斉に働いたもんだ。若い者、なんぼでも働けたのさ。うん。そしておやつをごちそうになるのが嬉しくてねえ(笑)。今ならダイエットとかって食べないで痩せる方法がやってるね、ああ、こんなでっかい「おはぎ」なんか出たもんなら、喜んでごちそうになって、働いて来た。そうやって仕事を割り振りして働きに行ったの。
希望して工場に働きに行った人もいました。私もね、周りでみんなお友だちが行くから、「私も行きたい」って言ったの、親に。そしたら親が言うには、「お前はとっても寝相が悪くて、他のあんちゃんたちに笑われるから出されねえ」って(笑)。やっぱりひとり女が1人だから出したくなかったんでしょうが、そんなこと言われたって(笑)。あんたがたは笑ってけらい(笑ってくださいよ)。アハハハ。
うちの両親が、かなり心配して、こう言ってたのを聞いたの。「男がみんな兵隊に行って戦死して、たったひとりの娘さ、夫を持たせられねえんでねえかな」って。それで私は、「はあ、早く嫁に行かせたいのかなあ」と思ったった。とにかく、戦死したんだもの、男っていう男はね。体の弱い人だけ残って、全部兵隊にとられて、兵隊に行く年齢よりちょっと若い人は軍需工場に取られたんです。男は誰もいないんだもの。だから、親としてはそう思ったんでねえかね。
青年学校は部落部落にあるわけね。畑をいっぱい持ってる家から30坪くらい借りてね、農業の先生をお呼びして、農業を教えられた。私たちは唐桑中学校の下のほうの畑をお借りしてそこにみんな集まったの。1週間に1回とか、そんな毎日でもないので、仕事って言えば家の仕事を主にさせられたのね。例えば春は草むしりとか、サツマイモ植えるとか、麦踏みとか、5月6月は農繁期で学校を休ませられるんだもの。農繁期って丘の方では田植え。こっちの方では麦刈りをするんです。
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