東日本大震災 RQ聞き書きプロジェクト 「自分史」公開サイト

妹の死

さらに、何カ月お風呂にも入れない最悪の衛生状態で、みんな身体中垢だらけになって、その体についた虱が媒介して発疹チフスにかかって毎日死ぬ人が出ました。うちの妹のサチ子がかかってしまい、「腹減った・・何か食べたい・・何か食べ […]

ささよの保存と被災

子どもの数は、昔は20人くらい、昭和40(1965)年生まれの人たちが1年生か2年生の時には30人くらいはいたね。「ささよ」が歌津町の文化財に指定されるようになってから初めて、保存会っていうものを作らなくちゃならないから […]

刈払い植林作業の出稼ぎ

昭和30(1955)年、北海道に刈払い植林作業の出稼ぎの話が持ち上がりました。ずっと北の方の中標津町で、前払いで日当450円もらえるということでした。4月から第一陣が入っていましたが、私は6月に行きました。トラックで山の […]

馬糞拾い

やっぱりなんだね、小学校高等科になると、「今日は馬糞拾いですよ」なんて、2人で桶持って、馬糞拾いに行ってそれを肥料にする。そのような時もあったね。何個拾ったらば、帰っていいから、なんて。その頃、馬多いから。けっこういっぱ […]

満州の暮らし

徳恵は冬になると零下20度、30度になります。私は小さい時から本当に体が弱くて、病気ばかりしていたのですが、5歳になったときに、父からスケートを教えてもらうようになりました。冬になると小学校の校庭に夜のうちにパーッと水撒 […]

後世に歴史を書き残す

ここ寄木には、250年ぐらいになる、「ささよ」っていう行事がある。テレビで何回も放送して、各新聞社もいっぱい来てっから。1月の小正月にやる、その保存会の会長を50年続けてきました。あとの会長さ譲って2~3年にもなるけど、 […]

中国残留孤児が生まれたわけ

現地の満州人が日本人の赤ちゃんが欲しくて、いっぱい建物の玄関に来ているんですね。彼らはアワだの高粱(こうりゃん)だのだけど、満足に食べていたのです。そこで小さい子を持つ親たちは、1歳か2歳くらいの子どもたちを現地の満州人 […]

避難所

私たちは、その後、「つつじ苑」っていう養護院に避難したの。狭いところにこうやって寝たけれども、畳の上に寝たから、まずはよかったのね。畳1枚か2枚に3人か4人くらいで寝たんです。おしっこで夜起きても、足の踏み場がないけど、 […]

カツオ漁

カツオ船には、7年ぐらい乗ったね。カツオ船は年中ではないんだね。春から夏に近い時から南の方さ行って、だんだん日本に近づいて来て10月末までやって、そのままの格好でサンマ漁に行ったね。 カツオは群れで、獲れるときは船で10 […]

満蒙開拓団の悲劇

そして私は、宮城県の社会福祉課の委託を受けて、登米市と栗原郡の中国残留婦人の生活相談員になっています。残留婦人から話を聴いていると本当にかわいそうに思うのです。 ある方は、昭和17~18(1942~43)年頃、宮城県の「 […]

満鉄に入社した父

父はその後、夢を抱いて陸軍に入り、満州に渡って、司官である軍曹まで階級が上がりました。しかし当時は、大勢の軍曹が在籍していて、そこから次の階級の曹長になれるかどうかわからないので、転職しようということになり、気仙沼の人の […]

農家への出稼ぎ

中学校を卒業してすぐ、山仕事に就きました。親類の小野寺一郎右衛門さんという人が山の巡視員をやっていた関係で、仕事をしたのです。日当180円でした。山で働くには自転車が必要でしたがお金もなくて困っていたところ、佐藤高志さん […]

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